正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百五十五

 岩波文庫115ページ「草鞋銭なにとしてか管得(かんて)する。行脚(あんぎゃ)の年月にいくばくの草鞋をか踏破(とうは)しきたれるとなり」
 (携帯用の水はほうっておくのに)草鞋の代金はどうして問題にするのか。真の仏教・仏道を求めて旅をする年月の間にどれくらいの草鞋を履きつぶしたかということである。
 草鞋を履きつぶすということは修行をし続けるということではないだろうか。
 それは日常の中で常にし続けることが重要というかすべて。修行=仏なのだから。
 日常の瞬間瞬間の行動が問われる。
 どこかの県知事が失言だかをして「取り消したら存在しない」とか言っているみたいだけど、その瞬間、間違えたら、それがすべて。「ある」に決まっている。言葉遊びはいい加減にした方が良いと思いますね。
 ただ、間違いは消えないけど、問題は次の瞬間何をするかだ。
 刹那消滅の道理というらしい。今の瞬間は消え去り、次の瞬間にどうするか。それは仏教の思想の重要なものだと言えると思う。「救い」とも言えるかもしれない。あまり「宗教っぽい」言い方は嫌いだけど。