正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その四十八」

 岩波文庫132ページ「「赤心片々」といふは、片々なるはみな赤心なり。一片両片にあらず、片々なるなり」

 赤心について、水野弥穂子氏は「むきだしの真実」とされ、西嶋和夫氏は「赤裸々な心、真心」とされている。

 私はよくわからないが、とにかく赤心つまり今の瞬間真実を知りたいと思うこと=それは現実の瞬間瞬間の事実、だと思っている。赤心=片々だから、赤心片々であり、片々は赤心なのだ。それは一つ二つと数えるものではなく、現実の瞬間瞬間すべての存在なのだ。

 とにかく一生懸命真実を追求することは、目の前の現実、すべての存在、大宇宙と一体となることだ。

 そのようなとき、人間はおかしなことはしないと信じている。

 何とか大学の学長だか総長だかが猥褻行為で実刑判決を受けたけど、刑期を終えて復職したという。まったく真実・真理からは程遠い行為としか言いようがない。「赤心」がまったくない。それでも「自分は凄い」と思えるのだから、幸せな哀れな人としか言いようがない。外国の大学から送られた賞状だか証明書だかを拡大コピーして学校の入り口に張っているそうな。中身のない人間ほど外側の見てくれにこだわるもので、典型的なお馬鹿さんなんでしょうね。

 もっとも、教育とか福祉にかかわる人たちの中にはいかがわしい奴が結構いることを実際に知っている。そういう奴らの一番の目的は公的な「補助金」。金がある所には怪しげな奴が群がってくるものです。そしてたちが悪いのは、教育とか福祉とか、それを必要としている人たちは弱い立場だということ。だから悪い奴は一層傍若無人になる。

 こういう奴らは実刑を受けようが、非難されようが、平気の平左。

 いずれ因果の法則の結果を受けることにはなることは絶対に間違いないが、それはいつになるかは分からない。

 私は、坐禅して赤心片々を受止めて生きていきます。