正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その四十七」

 岩波文庫132ページ「依を転ずるに相似なりといへども、依にしらるゝにあらず。共出一隻手(ぐしゅついしゃくしゅ)なり、自出一隻手なり、異類中行(いるいちゅうぎょう)なり。地獄・餓鬼・畜生・修羅等のなかにしても発菩提心するなり」

 (発菩提心の時には)環境を変化させているのに似ているようだが、環境に知られる(環境が積極的に関わってくる)ということはない。自分自身と環境が共に片手を差し出しているのであり、自分自身も環境も大宇宙の一部なのだから、つまるところ自分自身が片手を差し出しているのである。周りがどういう状況であろうとも、自分自身で行うのである。地獄・餓鬼・畜生・修羅など様々な境遇があるが、どういう境遇であっても菩提心を起こすことができるのである。

 要は、自分の人生は自分自身で生きるしかないということだと思っている。

 自分自身は何もしてないのに上手くいくとか、環境が悪いから上手くいかないとか、そんなことばかり言っていても仕方がない。

 自分の人生は自分自身で生きろ、正しく生きるためには坐禅せよ、そういうことだと信じている。

 坐禅してないと、片寄った思想、片寄った知識、その片寄った思想・知識のため現実がねじまがって見えてしまっているのに、「自分は正しい」と信じて疑わないという恐ろしいことが起こる。

 政治家とかマスコミとか、これからはネットという非常に厄介な「権力者」がこのような状況になっていると私には見える。

 「正しさ」という妄念に取り付かれると、残酷なことも正しさ・正義の名の下に平然と行われる。それは歴史が証明しているし、現在も存在していることは歴然としていると私は思っている。

 「信念」という名の下に、社会を良くする、弱者を救うという名の下に、それにちょっとでも異を唱えれば、猛烈に攻撃する。普通こういうことは「異常」と言うと思うけど、そんなことは通じない人たちが多いなあと思う。

 坐禅して、普通に大宇宙の真理と一体となって生きていきませんか?