正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その四十

 岩波文庫131ページ「玉をひくちからあり、水にいる能あり。とくる日あり、くだくるときあり、極微(ごくみ)にきはまる時あり」

 (趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)禅師に「磚(かわら)をなげて玉を引く」という言葉がある)が、玉を引く力(貴重なものを手に入れる能力)があるし、(大般涅槃経にある)水の中に入って玉を手に入れる能力もある。溶けたように、また細かく砕けたようになって森羅万象と一体になる、時には、これ以上細かくすることができないレベルに至る時もある。

  磚を投げて玉を引くというのは、普通の日常生活を大切にすることこそが貴重なものを手にいれることができる方法だということだと思う。

 水の中に入る、というのは具体的な行動を起こして初めて貴重なものが身に付くということだと思う。

 坐禅をしていると、時には身体が意識されなくなって大宇宙そのものを感じることもある。大宇宙は想像を絶する広大なものだろうけど、一方で極々微小なものの集まりでもあるだろう。そのようにも感じることがある。

 寒い日に坐禅していると、身体から陽炎のように空気が揺らいでいるのが見えることがある。人間というのは物体で、この肉体の中で様々な反応が起こっているんだなと思う。

 このような肉体を使って日常生活を一生懸命に行動していく、当然、坐禅しながら、これがすべてだと思う。

 私は立派な人間ではない。七転八倒して日々生きている。坐禅のおかけで何とかおかしなことをしないで耐えられていると思っている。

 コロナ対策について政治家には全力を尽くして欲しいとは思う。しかし、一方で自分の人生は自分で生きるしかないとも思っている。

 ワクチンができたから、これで安心というのは楽観的に過ぎる気もする。

 何にしても、人間、いつ死ぬか分からない。いつ死んでもいいように、日常の瞬間瞬間を大事にしたいと思う。