正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その三十九

 岩波文庫131ページ「咸通年前につくり、咸通年後にやぶる、拕泥滞水(たでいたいすい)なり、無縄自縛(むじょうじばく)なり」
 疎山光仁(そざんこうにん)禅師は、咸通という年号の前には、大宇宙の真理に従って身辺のことができるようになったが、咸通の後にはさらにそれを乗り越えた状態になったというが、それは泥まみれ、ずぶ濡れになって現実の世界、日常生活を必死に生きたということであり、縄も無いのに縛られて身動きがとれないということに気がつくということである。
 人間が普通に生きるというのは大変なことだと近頃しみじみ思う。それこそ泥まみれずぶ濡れで、もがいている。一方で、自分で勝手に制約があると錯覚して苦しい思いをしたりしている。
 生きるということは、そういうことだと思う。きれいごとではいかない。楽して上手くやろうなんて訳にはいかない。けど、駄目だ駄目だと悲観して行動しないのでは話にならない。
 坐禅していると素直にそう思える。
 大宇宙の真理に従って普通に生きるのは難しい。坐禅しなければ不可能だと思う。
 池袋で事故を起こしたお年寄りが、「過失ではなく、ブレーキの不具合だ」と主張しているという。真実はどうなのか私には分からない。けど、この人は無縄自縛だなとは思う。一体、何を守ろうとして必死になっているのだろう。自分の運転していた車で事故を起こして人が死んだ。理由は、真実はどうであれ、私なら人を殺してしまったという事実に打ちのめされて、ひたすら謝罪するしかできないと思う。仮に、万一ブレーキの不具合だとしても、だから自分は法律上無実だ、なんていう態度は人間としていかがなものかと思う。
 何回も書いているけど、法律と大宇宙の真理はレベルが違う。
 坐禅して大宇宙の真理を身心で感じて欲しいなと思う。