正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その四十三

 岩波文庫131、132ページ「「発菩提心」は、あるいは生死(しょうじ)にしてこれをうることあり、あるいは涅槃(ねはん)にしてこれをうる事あり、あるいは生死涅槃のほかにしてこれをうることあり。ところをまつにあらざれども、発心のところにさへられざるあり」
 真実・真理を知りたいという気持ちを起こすこと「発菩提心」は、生きる死ぬという場面で真実・真理をを知りたいという気持ちを起こすことがあるし、あるいは安定した穏やかな状態「涅槃」で菩提心を起こすこともある。あるいは生死や涅槃以外のことで菩提心を起こすこともある。どういう場所でなければいけないということはなく、真実・真理を知りたいという気持ちを妨げることはできない。
 結局のところ、人間は何故、何のために生きているかと言えば、大宇宙の真理を体得するためだと私は思っている。それは、日常生活のどんな場面でも、真実・真理を知りたいと思うことがありうるということだと思う。
 日常生活を瞬間瞬間一生懸命に生きている、その中で菩提心はいつでも生まれ得る。何かをやろうとするとき「これでいいのか?」と思うのも菩提心のきっかけだと思う。
 幸せだとか不幸だとか世間の相対的な基準で、つべこべ考えたり、行動していると、ただ混乱していくだけだと思う。基準は大宇宙の真理以外にはない。そしてそれは坐禅によってしか得られない。
 色々な広告を見ていると「幸せになれる」「運がよくなる」「成功する」「悩みが解決する」なんて言っているけど、本読んだくらいでそんなに上手くいくもんですかねえ。もちろん本を読んで知識を得、色々と考察することは重要だし、それなくして人類の進歩はないだろう。ただ、怪しげな本、完全に怪しい本も世の中にいっぱいある。そんなものに騙されないためには、坐禅して心身をバランスさせておく必要がある。
 生きるか死ぬかというときには一番切実に真実・真理を知りたいと思うのではないだろうか。人間は必ず死ぬのだから「何のために生きるのか」は重大な問題だ。この問題は、私は坐禅して正法眼蔵を読むしか解決しないと信じている。
 話は横道にそれるけど、「死後の世界」とか「輪廻転生」とかを説いている人がいる。言論は自由だし、それで幸せなら結構なこと。ただ、私は死後の世界も輪廻転生もどうでもいい。興味はない。今の瞬間を一生懸命生きることで精一杯だ。死ぬときは死ぬしかない訳で、そのときはじめてどうなるのか分かるのかもしれないし、分からないのかもしれない。どうでもいい。
 一方で、科学的に証明されていないから、死後の世界や輪廻転生はないという主張にも賛成はできない。現時点の科学で分かっていることなんて大宇宙のほんのちょびっとにすぎないと思っている。日々科学者は努力しているとは思うけど、まだまだ証明されていないことは山のようにあるのじゃないだろうか。
 いずれにせよ、私は坐禅して普通に日常生活を生きていきます。