正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その四十四

 岩波文庫132ページ「境発(きょうほつ)にあらず、智発(ちほつ)にあらず、菩提心発(ぼだいしんほつ)なり、発菩提心(ほつぼだいしん)なり」
 菩提心は環境によって生まれる、出てくるものではない、頭の中で考えて生まれる、出てくるものではない。環境とか頭で考えるということと関係なく菩提心そのものが生まれる、出てくるのだ。そのときが発菩提心のときである。
 このブログの最初の方に書いたけれど、私が組織の中で七転八倒し、四面楚歌、村八分みたいになったとき、組織論とか、経営論とかそういうもので相手と戦おうとは思わなかった。ただ真実・真理は何かが知りたかった。相手が何を言おうと、何をしようと、とりあえずはどうでもよかった。真実・真理を知ることができれば、それでよかった。
 このように書くと、そういう環境に私がいたから菩提心を起こしたのではないかと言われるかもしれない。しかし、ここでいう境発とは「環境が整っていれば自然と菩提心が生まれる」ということだと思う。そんな環境任せではない、どんな環境であろうと自分自身が真実・真理を知りたいと思わなければだめだ。「自分は環境に恵まれてない」なんて言っていたら何も生まれない。私も当時「世の中こんなもんだ」とか「組織の中で身を任せていればいい」ということもできたかとは思う。でもそれはできなかった。変なもの、おかしなものは変であり、おかしい。なのに何故それが現実に目の前で進行しようとしているのか、この「何故」が分かりたかった。
 今の世の中、私には「頭でっかち」で理屈・言葉が溢れすぎていて、真実・真理を見失っているんじゃないかと思う。「智発にあらず」なのだ。
 あーでもない、こーでもないと正直うるさい。そんな誰もが納得する世の中なんてありえないだろう。だから何をどうしたって、自分自身で何とかするしかない。今の政治家の言動を見ていると一つの考えに固執して、何でも白黒つけようとしているように見える(特に野党)。マスコミはひたすら批判しているだけに見える。政治家もマスコミもレベルが低すぎじゃないのかな?
 大宇宙がどうなっているかという視点で、極々普通に考えられないもんですかね。
 まあ、坐禅してないだろうから、無理だろうね。坐禅しようと思うこと=発菩提心なんだと思うけどね。
 坐禅していれば、政治家が何を言おうと、マスコミが何を言おうと、大宇宙の真理に従って普通に生きていける。私はそう信じている。