正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その五十一」

 岩波文庫133ページ「「平常心(びょうじょうしん)」といふは、此界他界(しかいたかい)といはず、平常心なり。昔日(せきじつ)はこのところよりさり、今日はこのところよりきたる。さるときは漫天(まんてん)さり、きたるときは尽地きたる」

 「平常心」とは何かと言えば、この今いる世界とかそれ以外の世界とか、そういうものとは関係ない、ごく当たり前の、普通の心のことである。過去は今この瞬間から去り、今日という日は今この瞬間にやってくるのだ。去る時は天空全体が去り、来るときは大地全体がやってくるのだ。

 平常心は、この世界における心、別の世界の心というようなものではなく、ただごく普通の当たり前の心のことだということだと思う。坐禅している人間の心と言ってもいいんじゃないかと思っている。大宇宙の一部である人間の本来の心なんじゃないだろうか。

 よく平常心(へいじょうしん)は、何事が起きても冷静沈着な精神状態を保つことみたいに言う人がいるけれど、私にはそれは人間らしくないと思う。怒る時は怒りゃいいし、悲しい時は悲しめばいい、困ったときは困りゃいい、そう思う。過度にならなきゃいいだけのこと。坐禅していれば自然とそうなる。

 人間は今この瞬間を生きているのだから、瞬間で全世界が過ぎ去り、瞬間に全世界がやってくる。今この瞬間をごく当たり前に普通に生きている状態の心が平常心(びょうじょうしん)だと思う。

 ときどきスポーツで平常心が大切とか言うけど、勝つか負けるかの勝負をしているなんてのは、異常な状態であって、そこに平常心なんてありえないんじゃないかと思う。勝負の瞬間何ができるかは基礎トレーニングとか、テクニックの習得だとか、シュミレーションの事前準備だとか、場数による経験値だとかが総合的に発揮されるということじゃないのかな。精神主義を持ち込むのはどうも好きじゃない。大日本帝国の軍隊じゃあるまいし。

 コロナの感染はそう簡単には止まらないだろうと思う。ただ、感染しやすい条件は分かっているのだから、それは避けなきゃいかんだろうと思う。私も注意を払って外出はする。先日朝早い電車に乗ることになったのだけど、20歳前半くらいの男性2人、女性1人がべろべろに酔っぱらって、マスクせずに大声で馬鹿としか言いようのないことを喋り散らしていた。私は別の車両に移ったけど、こういう輩がいる訳だから、どうしようもない。

 坐禅してごく普通のことができる平常心になってほしい。