正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その十

 岩波文庫184、185ページ「「学人如何会得(がくにんしゅおういて)」。この道取は、たとひ僧の弄業識(ろうごっしき)に相似(そうじ)せりとも、大用現(だいようげん)、是大軌則(ぜたいきそく)なり。すすみて一尺水(いっしゃくすい)、一尺波(いっしゃくは)を突兀(とつごつ)ならしむべし。いはゆる一丈珠(いちじょうしゅ)、一丈明(いちじょうめい)なり。」

 「仏教を学ぶ人間はどのようにして理解すればよいでしょうか」。この言葉は僧があれこれ思い付きを弄んでいるようでもあるけれど、(ヌッ経をどのように学べばよいのかという態度は)真実に至る大きな力、道筋となるものである。ここからさらに一尺の水、一尺の波という現実の姿をはっきりしっかりつかむべきである。一丈の大きさの珠は一丈の明るさを持っているのである。

 学ぼうという気持ちが無ければ何も始まらない。

 仏教は突飛なこと、超人的なことが出来るようになるために学ぶのではない。この現実世界の日常生活をごく普通に生きるためのものであると思っている。ごく普通に生きるというのは、大宇宙の真理に従って、大宇宙の真理と一体となって行動するということである。そのために坐禅するのだ。

 坐禅することによって大宇宙と一体となり、現実のありのままの姿が見えてくる、つかむことが出来る。だから普通に生きていける。

 今の世の中、現実が見えているのかはなはだ疑問な言動が多いように思えて仕方がない。

 「コロナの隠れ陽性が増加」とかいう記事を見た。何を言っているのだろうか?感染しても無症状な人なんて、最初からたくさんいたに決まっている。今だってたくさんいるだろう。ワクチン接種したって重症化リスクは軽減されるけど感染しない訳じゃないという。ワクチン接種すれば症状出ないケースも多いだろう。これも隠れ陽性というつもりなんだろうか。

 現実が分からなくなって、とにかく「コロナは大変だ!」と言いたいだけにしか見えない。

 人間は思惑に囚われると現実が見えなくなり、頭の中の妄想と現実の区別がつかなくなる。

 今の世の中、こういうことが多すぎませんか?

 坐禅して本来の面目に戻りましょう。