正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その二十

 岩波文庫188、189ページ「しかあれども、われもなんぢも、いかなるかこれ明珠、いかなるかこれ明珠にあらざるとしらざる百思百不思(ひゃくしひゃくふし)は、明々(めいめい)の草料(そうりょう)をむすびきたれども、玄沙の法道によりて、明珠なりける身心の様子をもききしり、あきらめつれば、心これわたくしにあらず、起滅(きめつ)をたれとしてか明珠なり、明珠にあらざると取舍にわづらはん。たとひたどりわづらふとも、明珠にあらぬにあらず、明珠にあらぬがありておこさせける行(ぎょう)にも念(ねん)にもにてはあらざれば、ただまさに黒山鬼窟の進歩退歩、これ一顆明珠なるのみなり。」

 (明珠は仏道修行者そのもの)そういうことであるけれども、自分もそれ以外の人も明るく輝く珠はどのようなものか、明るく輝く珠でないものはどのようなものであるかわからずに様々に考えを巡らせ考えることが出来なくなったりして色々なことを思い描いてきたけれども、玄沙師備禅師の法を説く言葉によってこの心身は明るく輝く珠なのであることを聞いて知ることができ、はっきりとさせたのであるから、心が自分のものではないとか、色々な思いや出来事が起こったとしても明るく輝く珠ではないということはない、明るく輝く珠ではないと取ったり捨てたりなどということにわずらう必要はない。たとえそのようにわずらうようなことがあっても、明るく輝く珠ではないなどということはない、明るく輝く珠ではないことで起こる行動でも考えでもないのであるから、ただまさに今この瞬間を生きることそれが鬼の棲む黒い山の洞窟の中であったとしても、そこで前に進んだり退いたりして一生懸命に生きていること、それこそのみ一顆明珠なのである。

 坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動する、この瞬間瞬間を一生懸命に生きる、そのことが一顆明珠なのだ。大宇宙と我々は同一のものである。大宇宙は明るく輝く珠、素晴らしい貴重なものなのだ。

 坐禅した心身で生きる。それが一顆明珠なのだ。

 人間はちっぽけな脳味噌で考えたこと、妄想に囚われとんでもないことをしでかす。

 ミサイルをばんばん発射し、戦闘機を飛ばして威嚇し、自爆テロで殺傷している。日本国内の政治でもとにかく対立軸を作って悪口を言い合っている。二極論でしかものが考えられないのを幼稚というと思っているが、当人たちは意気軒高だ。妄想は恐ろしい。

 坐禅して大宇宙の本来の姿、人間の本来の姿を取り戻しましょう。

 この世の中で生きることは楽なことではない。坐禅しているからといって安穏に暮らせる訳ではない。しかし例え今の瞬間が黒山鬼窟であったとしても、坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動するしかないのだ。逃げようとすれば苦しみが増すばかりだ。この瞬間を一生懸命に生きる。それが明るく輝く世界、一顆明珠そのものなのである。