正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その十八

 岩波文庫187、188ページ「即是恁麼(きぜいんも)は、尽十方界にてある一顆明珠なり。しかあればすなはち、転不転(てんふてん)のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。明珠はかくのごとくきこゆる声色(しょうしき)あり。既得恁麼(きていんも)なるには、われは明珠にはあらじとたどらるるは、たまにはあらじとうたがはざるべきなり。たどりうたがひ、取舍(しゅしゃ)する作無作(さむさ)も、ただしばらく小量の見なり、さらに小量に相似(そうじ)ならしむるのみなり。」

 既にこのように大宇宙の真理は存在するのであるから、この世界全体は一つの明るく輝く珠である。そうであるから珠が転がったり転がらなかったりするようにこの世界もいろいろ変化し、表がいろいろと変わるけれど一つの明るく輝く珠であることに変わりはない。まさに珠はこのようなものであるとと知るそのことが明るく輝く珠そのものなのである。明るく輝く珠とはこのようなものだと具体的な音が聞こえてくるし、具体的なものが存在している。既にこのように大宇宙の真理を得ているのであるから「自分はそんな貴重な珠ではありません」とうろたえ悩んだとしても「珠ではない」と疑う必要はない。うろたえ悩み、あれやこれや手にしたり気にしたり、それを捨ててみたりなどとやったりやらなかったりしているけれども、ただその場限りの視野の狭い見方なのである。けれどさらに言えばそれも大宇宙の真理が「狭い視野の見方」という形で現れているだけのことなのである。

 世界は様々に形を変える。一時として同じ姿であることはない。自分自身も一刻一刻姿を変えている。しかしこの目の前の現実の瞬間瞬間の姿は大宇宙の真理そのものなのだ。光り輝く珠なのだ。

 人間は光り輝く珠なのだ。おろおろうろうろしているかもしれないが、光り輝く珠なのだ。それを疑ってはいけない。疑う必要はない。

 自分は駄目だ、そんな立派な物じゃないなんて思う必要はない。光り輝く珠なのだ。

 そのことを体全体に教えてくれるのが坐禅なのだ。坐禅しない限り、この当たり前のことがわからない。

 今度新首相になる人は「傀儡」なんだそうだ。まだ首相に選ばれてもいない、首相として活動もしていないのに「傀儡」と言ってしまうのは如何なもんなんですかねえ。前にも書いたけど、組織には権力者、権限者が存在していて、無碍にはできないというのは普通なんではないのかな。首相をやる人間は一応そういう人の顔は立てて置いて核となる所は譲らないくらいのしたたかさが無きゃとても首相は務まらないだろう。中国、ロシア、北朝鮮、韓国、アメリカ、ヨーロッパなどなど各国の国益を巡ってどろどろの複雑怪奇、魑魅魍魎の世界を相手にしなきゃならないんだから、それくらいのしたたかさが無きゃ困る。

 その力量が有るか無いかは事実が答えを出す。今の時点でぱーぱー言ったって何になるんだろうか。今の与党、政府が嫌いだから必死に悪口言ってるのかな?

 ま、世の中色々です。

 とにかく一人一人が大宇宙の真理に従って生きていくしかない。そのために坐禅しましょう。。