正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その十九

 岩波文庫188ページ「愛せざらんや、明珠かくのごとくの彩光きはまりなきなり。彩々光々(さいさいこうこう)の片々条々は尽十方界の功徳(くどく)なり。たれかこれを攙奪(ざんだつ)せん。行市(あんし)に塼(かわら)をなぐる人あらず、六道(ろくどう)の因果(いんが)に不落有落(ふらくうらく)をわづらふことなかれ。不昧本来(ふまいほんらい)の頭正尾正(とうしんびしん)なる、明珠は面目なり、明珠は眼睛(がんぜい)なり。」

 大切にしないということがあるだろうかありはしない、明るく輝く珠はこのようにそれが持つ様々な色合いや光は無限のものなのである。その様々な色合い、光り輝く様子は瞬間瞬間に存在し次々とつながっていく、これが大宇宙のあり方なのである。これを奪い取ろうとしてもできることではない。市場で(価値のある玉は取るが価値の低い)瓦を投げ捨てるようなことをする必要はない。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という六道の原因結果に陥るとか陥らないとか気に病む必要はない。我々は大宇宙そのものなのだから真実のあり方がわからないということはない。このことは始めから終わりまですべて真実であり、明るく輝く珠は我々本来の面目であり、我々の眼球なのである。

 我々は本来大宇宙そのものである。本来大宇宙の真理そのものである。光り輝く珠なのだ。

 時々「因果」のために不幸になるとか訳のわからないことを言う人がいるが、我々の本来のあり方からすれば、因果に陥るなどとうろたえる必要はない。

 どういう状況であろうと、それはありのままの真実なのだから、きちんと受け止めればよい。苦しいつらいと感じることもある。しかし今この時は苦しくつらい時なのだからそれに対して坐禅した心身で対応していけばいい。苦しいのは嫌だ、つらいのは嫌だと逃げ回れば苦しさつらさが増すだけだ。

 道元禅師の言葉は美しく壮大だ。私は勇気づけられる。坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動する、真実・真理に従って生きていこうといつも励まされる。

 日本や世界を見渡すと、対立の構図ばかりが目に付く。対立の構図でしかものが考えられないというのは幼稚としか言いようがない。坐禅して本来の面目を取り戻してもらいたいと願うけど、難しそうだなあ。

 坐禅しましょう。