正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十九

 岩波文庫162ページ「深重の罪根たとひ無端なりとも、此輩の深重担なり。この深重担、しばらく放行(ほうあん)して著眼看(じゃげんかん)すべし。把定(はちん)して自己を礙(げ)すといふとも、起首にあらず。いま行仏威儀の無礙なる、ほとけに罣礙せらるるに、拕泥滞水(たでいたいすい)の活路を通達しきたるゆゑに、無罣礙なり。」

 深く重い罪の根は限りなく長いが、頭の中の考えに囚われ自分は仏と同じ状態だと思っている輩の罪は深く重くのしかかっている。この深く重くのしかかっている罪をとりあえず手放して大宇宙の真理に目を向けなければいけない。罪であるのにそれを捉えて自己と仏が同じだと考えても何も始まらない。坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動するときに備わる威儀は何にも妨げられない。ほとけ(大宇宙の真理)と一体となっているので、この日常生活を泥まみれずぶ濡れになって一生懸命生きることによって真理に到達しているから、何にも妨げられないのである。

 ここで道元禅師は繰り返し繰り返し、頭の中の考えに囚われず、行動することによって威儀が備わると書いておられる。、

 坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動するということは、毎日を安穏に送ることが出来るということではない。人間が生きるというのは、拕泥滞水、泥まみれずぶ濡れになっての必死なものだと思う。ぽわーんとした幸せみたいなものがあるなんてことはない。

 瞬間瞬間が生死の境界だと思っている。だからこそ瞬間を一生懸命に生きなければいけない。そこに価値、威儀が生まれると思っている。

 米中のつばぜり合いだって、イランとイスラエルだって、あるいは世界各地でちょっとしたきっかけで、何が起こっても不思議ではないと思っている。日本という国はどうふるまうのか。それを考える前提は一人一人が日常生活を一生懸命に生きていること、願わくば、坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動することしかない、そう信じている。