正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十四

 岩波文庫134、135ページ「風火未散はほとけ法をとく、未散風火は法ほとけをとく」

 水野氏の脚注では「風火というほとけが未散という法をとく。風火が自己の正体でほとけ。未散が生きている真実のあり方」「未散という形の自己の正体がある」とされている。

 私なりに思うのは、風火というのは大宇宙の真理によって展開されている事実=ほとけ、未散=法というのは森羅万象を指す使い方もされるから現実そのものを指していると考えられないかと思う。ほとけも法も根源的には一つのような気がする。

 だから、道元禅師は風火未散、未散風火とひっくり返して結局は、現実が大宇宙の真理なのだということを説いておられるのではないかと思う。

 現実が大宇宙の真理といっても、人間が置かれた状況によって、現実は過酷な、残酷なものであることもある。辛く、厳しいものであることもある。苛立たしい、不快なものであることもある。

 仕方ないから、あきらめて受け入れるということではないと思っている。それが現実だから、その上でどう行動するかなのだと思う。

 もちろん、打ちひしがれて、ふさぎ込むことだってあるだろうし、それはそれで現実だ。「ああ、今は自分は気力、体力が十分でないな。ここで無理しない方がいいな」ということもあるだろう。

 坐禅していると、行動すべき時期、何をしたらよいか、感じ取ることができる。そう私は信じている。