正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百十一

 岩波文庫104ページ「すなはち知客と予と、謝利殿(しゃりでん)および六殊勝地(ろくしゅしょうち、山内の名所)にいたるあひだ、数番挙揚(すばんこよう)すれども、疑著(ぎじゃ)するにもおよばず。おのづから下語(あぎょ)する僧侶も、おほく都不是(とふぜ)なり。予いはく、「堂頭(どうとう、道場主、住職)にとうてみん」。ときに堂頭は大光和尚(だいこうおしょう)なり。知客いはく、「他無鼻孔、対不得(たむびくう、ついふて)。如何得知(しゅおてち)」」
 道元禅師と知客の僧と寺の色々なところを巡ったが、その間、何回か、三十三の絵についてその意味は何か取り上げて聞いてみたが、道元禅師の質問にどういう意味があるのか疑うこともしなかった。知客の他の僧侶の中で色々言うものもあったが、ほとんど全て答えになっていなかった。そこで道元禅師が「住職に聞いてみよう」と言ってみたところ、知客は「あの人は答えられる力量はない。どうして、あの絵の意味がわかるだろうか」と言った。
 結局、その寺には真の仏教を理解している者は一人もいなかったということ。知客は自分が理解できていないことは、薄々わかっているようだが、それをはっきりとは認めない。ところが、他人(ここでは大光和尚)については、「あの人はわかっていない」と言う。
 人間、他人のことは色々言えるけど、自分のことはさっぱりということ、多いですよね。
 組織の中でも、上司を無能だと言う人をけっこうみるけど、言っている本人も、大したことないことがほとんど。批判しているだけじゃしょうがない。大体、優秀な人なんて、そうそういるものじゃない。いないんだから、その事実を前提にどう行動するか考えるしかない。
 自分のことは棚に上げて、というのは、日常茶飯事という気がする。
 しかし、自分のことがわからなきゃ、話にならないはず。だけど、案外、平気な人が多いと思う。まじまじと顔を見てしまうことって、けっこうある。
 マスコミに登場している人たちはどうなんでしょうかね?
 坐禅して、本来の面目に立ち返り、回向返照(えこうへんしょう)しないといけない。自分が自分を自分で自分する(澤木興道氏)、今のようなコロナの状況だからこそ、大事だと思いますけどね。