正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 心不可得その四
岩波文庫191~193ページ「ときに鑑講師(かんこうじ)とふ。「なんぢはこれなに人ぞ」。
婆子(ぼす)いはく、「われは買餅(まいひん)の老婆子なり」。
徳山いはく、「わがためにもちひをうるべし」。
婆子いはく、「和尚もちひをかうてなにかせん」。
徳山いはく、「もちひをかうて点心(てんじん)にすべし」。
婆子いはく、「和尚のそこばくたづさへてあるは、それなにものぞ」。
徳山いはく、「なんぢきかずや、われはこれ周金剛王なり。金剛経に長ぜり、通達せずといふところなし。わがいまたづさへたるは、金剛経の解釈(げしゃく)なり」。
かくいふをききて、婆子いはく、「老婆に一問あり、和尚これをゆるすやいなや」。
徳山いはく、「われいまゆるす。なんぢ、こころにまかせてとふべし」。
婆子いはく、「われかつて金剛経をきくにいはく、過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得。いまいづれの心(しん)をか、もちひをしていかに点ぜんとかする。和尚もし道得(どうて)ならんには、もちひをうるべし。和尚もし道不得(どうふて)ならんには、もちひをうるべからず」。
徳山ときに茫然(もうぜん)として祇対(したい)すべきところをおぼえざりき。婆子すなはち払袖(ほっしゅう)していでぬ。つひにもちひを徳山にうらず。」
徳山宣鑑禅師は老婆に尋ねた「お前さんは何をしている人かね」
老婆は言った「餅を売っている婆だよ」
宣鑑禅師は言った「私に餅を売ってくれ」
老婆「和尚さんは餅を買ってどうするのかね」
宣鑑「餅を買っておやつ(天心)にしようと思う」
老婆「和尚さんがたくさん持っているのはなにかね」
宣鑑「あんたは聞いたことが無いのか。私は金剛経の第一人者で周金剛王である。金剛経を完全に理解しわからないところなどない。私が持っているのは金剛経の解釈書だ」
老婆「この婆に一つの質問があるけれど、質問することを許してくれるかどうか」
宣鑑「許す。気にせず何でも聞くがよい」
老婆「私が昔金剛経を聞いた時「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」と言っていた。和尚さんは今おやつ(天心)にすると言ったけれど、どの「心」に餅を点じておやつにするのかね。和尚さんが答えられたら餅を売ろう、答えられなかったら餅は売れない」
徳山宣鑑禅師は茫然としてしまい何と答えていいか分からなかった。老婆は袖を払って去ってしまった。徳山禅師にとうとう餅は売らなかった。
徳山禅師は「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」という言葉は知っていて、表面的には分かっていると思っていた。しかし老婆の質問に対し答えられなかった。つまり「心」とは何かが真には理解できていなかったということ。
これはよくあることだと思う。何となくわかっている気になっていても、なにかちょっとしてきっかけで「ああ自分は本当には理解していなかった」と気付くことはよくあることだと思う。
あるいは頭で分かっているつもりになっていても、現実に行動しようとすると全然できないなんてこともよくあることだと思う。
選挙戦の中で、何やらいろんなことを叫んでいる。けれど、単なる理屈、頭の中だけで描いている構想がほとんどじゃないかと感じる、中には妄想・虚言としか言いようがないものまである。
今の世の中が、いかに頭の中だけの薄っぺらい考えがまかり通る世の中になってしまっているかを選挙を通じてしみじみと実感している。
もういい加減に目を覚ましたらどうですか。
大宇宙の真理と一体となって、現実をしっかりと見て、大宇宙の真理に従った着実な行動を取るようにしようじゃないですか。
と言っても妄想に憑りつかれちゃってるから「自分は正しい」と思って聞く耳持たないだろうなあ。
でもねえ、このままじゃ、まずいですよ。
坐禅しましょう。