正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百十二

 岩波文庫104、105ページ「ゆゑに光老(こうろう、大光和尚)にとはず。恁麼(いんも)道取すれども、桂兄(けいひん、成桂知客)も会(うい)すべからず。聞説(もんせつ)する皮袋(ひたい)も道取せるなし。前後の粥飯頭(しゅくはんじゅう)みるにあやしまず、あらためなほさず。又、画することうべからざらん法はすべて画せざるべし。画すべくは端直(たんじき)に画すべし。しかあるに、身現の円月相なる、かつて画せるなきなり」
 成桂知客が大光和尚はわかっていないと言うので、問うことをやめた。成桂知客は大光和尚のことはそんな風に言うけれど自分もわかっていない。道元禅師とのやりとりを聞いていた人々(皮袋)も何か言うこともできなかった。大光和尚の前後の住職(粥飯頭と言うのはお粥を食べるときに一番上座につく人ということらしい)たちは、三十三の絵を見ても、それらがどういうものか考えもせず、考えないから改めることもしなかった。画けないのであれば、画いてはならない。画くのであれば、きちんと正しく真のことを画かなければならない。けれど、身体を現す(坐禅)の姿が、円月相であると画いたものはない。
 ここのところでは「画することうべからざらん法はすべて画せざるべし」「画すべくは端直に画すべし」というところが、私は自分への戒めも含めて重要だと思っている。
 今現在の自分の能力、情報量、環境などからできないことはやってはいけない。やれることならきちんとやれ。
 当たり前だけど、やれるかやれないか、その可能性を現実の中で徹底的に検証しななければいけない状況になることは、それなりに起こっていると思う。それは社会に生きている人間として避けられないことだと思う。
 けど、一生懸命考えて「こういうことなので無理だ」と言うと、それが正しくても「やる気がない」とか「やる前から批判ばかりしている」なんて苛められたりする。
 しかし、間違いは間違いなので、うまくいくはずがない。
 失敗したとき逃げるのがうまい人は偉くなりますなあ。
 間違ったことはしてはいけません。真実をつかめてないなら偉そうになんかやっちゃいけません。
 坐禅してない人にはわからないだろうけど。
 ちょっと蛇足。検察庁長官の定年延長は大騒ぎで、大いに意見を出せばいいと思う。ただ、日本は本当に三権分立してるのかな?とは思っている。