正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百六

 岩波文庫102ページ「この画(が)いまだ月相(がっそう)ならざるには、形如なし、説法せず、声色(しょうしき)なし、用辯(ようべん)なきなり。もし身現をもとめば、円月相を図すべし。円月相を図せば、円月相を図すべし、身現円月相なるがゆゑに」
 坐禅の姿が円月相なのだから、坐禅をしていないなら、形で示すということはないし、法を説くこともないし、真理を口にしたり形で示すこともないし、はっきりさせることもない。もし、身体を現そうとするなら、坐禅をすることとなる。円月相を描くというのは坐禅をすることになる。坐禅の姿が身現円月相なのだから。
 正法眼蔵坐禅のこと、坐禅の中身が書かれている書物。坐禅しか大宇宙の真理と一体になる方法はない。
 コロナを巡って、何か一つのことを取り上げて、この世の終わりみたいに大騒ぎしている。パチンコをやっていて怪しからんとか、PCR検査が足りないとか、ひとつひとつ間違ってはいないのかもしれないけど、そもそも全体として何がどのようになっているのか、どうなっていくのか、少なくとも私はそのような言説を見聞していない。学者の間でも色々あるんじゃなかろうか、と思う。学会もヒエラルキーがあるし、目立ちたがりもいるしね。情報を扱う人たちも全体像がわかっているはずもないし。
 情報は情報として必要だけど、振り回されたら、おかしくなっちゃうし、くたびれる。
 坐禅して過ごしましょう。