正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その三十一

 岩波文庫130ページ「恁麼(いんも)なるがゆゑに、一心の所見、これ一斉なるなり。これらすでに心(しん)なり。内(ない)なりとやせん、外(げ)なりとやせん。来(らい)なりとやせん、去(こ)なりとやせん」
 色々な立場において心として見るところは、その立場、立場での心が見ているという点では同じであり、変わるところはない。これらは全て心である。心というものと大宇宙は同じものなのだから、自分の内面とか外側だとか、来るとか来ないなどということは無いのである。
 私は自分の日常生活を普通に一生懸命生きていこう、そうするしかないと思っている。自分自身の生活がちゃんとできなくては話にならない。
 世の中、色々なことで騒いでいる。色んな人が様々な立場・考え方で意見を言っている。
 それは結構なことだ。そこの自由が失われては絶対にいけないと思う。一つの思想で人間を拘束するとかとんでもない、あまりにも低レベルだと思う。一方で思想の違いで対立、抗争するのもレベルが低いと思う。そうならないためには大宇宙の真理に人類が到達するしかないけど、時間がとてつもなくかかるだろうなあ。
 各々の立場から見れば、世界は様々に見える。それは現実なのだから認める必要がある。それをいきなり「怪しからん!」と悪の権化のように罵って、自分は正義だと思っている人がいるけど、それはそれで賢くないと思う。
 真理はある。それは坐禅しなければ絶対にわからない。いわゆる「頭の良さ」ではわからない。
 コロナが拡大しているという。経済活動すりゃそれは拡大するだろう。拡大を防ぐ方法は繰り返し言われてるけど、守らなきゃしょうがない。休業補償しろといっても、どの範囲でどこまでやるのか?もちろん生活のためにお金稼がなきゃ困る、死活問題だと思うけど、「好きな商売ができない」ということ自体がとても辛いのではないだろうか。
 経済活動して、感染拡大したら、少し活動を縮小する。普通のことだと思うけど、政府は一貫してないとか、一転して変更とか批判するけど、そんなに悪いことなのかな?
 口先だけならなんとでも言える。
 そこはよくよく考えなきゃいけないと思う。