正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その二十二

 岩波文庫129ページ「しばらく山河大地日月星辰(せんがだいちにちがつせいしん)、これ心(しん)なり。この正当恁麼時(しょうとういんもじ)、いかなる保任(ほうにん)か現前する」

 山や河そして大地、太陽、月、星、大自然、大宇宙、これらが心なのだ。まさにこの時どのような状態が現れるのか。

 前にも書いたけど、人間というのは、大宇宙の一部を皮の袋で包み込んだもの。だから、心と大宇宙は同じもの。心と大自然・大宇宙は別のものではない。心があるから大自然・大宇宙があると意識するということではない。

 サステナブルとかいう言葉を流行っているようだ。仏教の立場で言えば、何を今更という感じと私は思う。ちゃんと勉強してないけど、人間が持続可能な世界を作る、このままではいけない、と言っているように感じる。さんざん好き勝手やって来て、「人間が何とかしなきゃいけない」なんて威張って言うことじゃなかろうと思ってしまう。

 そもそも豊かさとは何なんだろう?コロナのニュースの中で「接待を伴う飲食店」とか言ってるけど、そういうところに行くのが豊かさですかね?なんで行きたいんだろう?決死隊みたいだと思う。ある意味凄いと思う。

 グルメだとか、豪邸だとか言ってるけど、そんなことをやりながら、サステナブルとか言われても笑ってしまう。

 結局のところ人間の価値が何かがはっきりしてないから、やってることがちぐはぐだ。軍事力増強してる国々があるなかで、レジ袋を有料化してサステナブルだなんて、滑稽に思えますけどね。

 道元禅師は、例えば食事について、貧しい食事をしろとはおっしゃっていない。手元にあるものを丁寧に扱ってできるだけ美味しく食べるように心がけるべき、と書いておられる。ただし、食べるものが少なくても、貧しくても文句を言ってはいけない坐禅につとめよとおっしゃっておられる。

 坐禅していれば、過度な欲望はなくなる。生きていくのに必要なもので十分だという身心になる。

 サステナブルの国際的なルールを作るというのは、今の人類のレベル、ほっとけば何をしでかすかわからない国々、人々なので仕方がない。けれど、根底が変わらなければ駄目なんだと思う。ルールがあるから仕方ないなんて意識じゃ情けない。ばれないようルール破る奴も出てくるだろうしね。

 坐禅しましょ。