正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その二十四

 岩波文庫148ページ「あきらかにしりぬ、心とは山河大地(せんがだいち)なり、日月星辰(にちがちしょうしん)なり。しかあれども、この道取するところ、すゝめば不足あり、しりぞくればあまれり」

 あきらかにわかる。「心」と山河大地は一体・同じものであり、太陽・月・星と一体・同じものである。そういうことであるけれども、このことを観念的に深堀しようとすれば不足するところが出てしまうし、かといって、放っておくならば体得すべきところが残ってしまう。

 大宇宙に欠けているものはないし、余っているものもない。完全なものである。本来人間も大宇宙そのものなのだから過不足などない。しかし、欲望や見栄などによって「まだ足りないまだ足りない」といっておかしくなってしまったり、「どうせこんなもんだ」と投げやりになって大宇宙と一体になれないということが起こる。

 本来過不足はない。坐禅すればわかる。儲けた金の大小とか、地位の高低とかの世の中の基準に引きずり回されるから、訳の分からないつまらないことをしてしまう。

 詳しくは知らないけどオリンピックの開会式の企画する組織の代表者が辞任したそうだ。渡辺直美さんという女性タレントの風貌を揶揄した、女性差別・蔑視だということらしい。ただ、企画チームの内輪のフリーディスカッション(LINE?)の場で、3年前のことだという。そして発言の直後に不適切と指摘され撤回しているとのことらしい(ほんとかどうか知らないけど)。

 何だか「正義」ばかり振り回して、他人のミスを鵜の目鷹の目で見張って、見つけたら大騒ぎして糾弾する。これって正常なんですかね?本当の差別をなくすために必要な不可欠な方法なんですかね?個人的な恨みとか、地位が欲しいとか言う動機なんじゃないかと勘ぐってしまう。みんながみんな、他人のミスを探し回っているとしたら生きづらい世の中ですなあ。

 人間いやすべての存在は大宇宙そのもので差別などありえない。その仕事に適した人が仕事ができるようになっていないとしたら、それは修正しなければならない。そのためには坐禅して大宇宙と一体にならばければならない。そう思っている。