正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その二十三

 岩波文庫147、148ページ「古徳云(いはく)「作麼生是妙浄心(そもさんかこれみょうじょうしん)。山河大地、日月星辰(せんがだいち、にちがちせいしん)」

 古徳(潙山霊祐禅師)が言ったものに「妙浄心とはどういうものでしょうか(という問いに対し)、この現実の山であり、河であり、大地であり、太陽であり、月であり、星である」というものがある。

 非常に優れた清らかな心とはどういうものかといえば、それは観念的・抽象的な頭の中で考えられた言葉ではなく、この現実の宇宙そのものであるということ。繰り返し書いているが心=宇宙なのだ。

 私たちは現実に生きている。だから現実と大宇宙と一体とならなければいけない。それは坐禅すれば実現する。

 誤解していただきたくないのは、そうなったからといって苦しみや悩みなどから解放されて安心して平穏に暮らせるということにはならない、ということだ。ただ、苦しみや悩みに振り回されずに、現実を踏まえて対処できるようになるということだ。苦しい時は苦しむしかない。けれど、「あ、今は苦しい時だな。それはこういうことだからだな」と感じることができるようになる。

 コロナの中で、言葉というものの限界がよく分かったように思う。もちろん、人々に伝えるためには言葉が不可欠だ。しかし、現実がどうなっているのか、だから何をどうするのかが不明確では「緊急事態です」と声高に言ったって、だからどうしたということになるのではないかな。

 結局のところ感染拡大の要因は特定できていないし、経済は回さなきゃいけないし、ならば感染は拡大するしかないだろうと思ってしまう。であれば、どこまでの犠牲ならば容認するのかということを政治は腹決めしなきゃいけないんではなかろうか?

 抽象的な言葉はもういい。だって人出は増えているし、飲んだくれたり、カラオケやったりしているじゃない。

 坐禅して普通になりましょう。