正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その二百十一」

 岩波文庫123ページ「俱動なれば、動はともに動ずといふとも、仏性の所在はそのなかにいづれなるべきぞといふか」
 二つに切れた両方とも動く、動くという点では両方動いているが、仏性はどちらにあるのかと言っているのか。
 道元禅師は、このように様々な視点から解説をされる。
 「仏性」は「どこかにある」ものなのか。仏性とは存在するものなのか。有るとか無いとか議論する対象なのか。
 私個人的には、仏性とは大宇宙の真理であり、この世界、実在すべてが仏性そのものだと思っている。
 仏性を神秘的な、抽象的な、観念的なものにしてはいけないと思う。
 1つ1つの実在が瞬間瞬間行動して世の中が動いていく。変わっていく。そして、行動の前提として事実が本当に把握できていないといけないと思う。「本当に」というのは、俗っぽく言えば「あんたが「そう思う」じゃだめなんだよ」ということ。
 でも、自分勝手に思い込んでいることを「事実」だとでかい声で主張している人、多くないですかね?
 事実ってなにか。これはとても難しい。道元禅師はこの後、二つに切れたみみずを材料に頭の中であーでもないこーでもないととこね繰り回すことでは、仏性とは何かは体得できないと説かれていく。