正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その六十一

 岩波文庫135ページ「しかあるに、棄身するところに揚声止響(ようしょうしきょう)することあり、捨命(しゃみょう)するところに断腸得髓(だんちょうとくずい)することあり」

  前回に書いたように、様々な形での真実の伝え方はあるけれども、自分の利得など我が身を棄てて行動するところに、声を揚げて周囲の無駄な騒ぎを止めてしまうということがあるし、場合によっては命をかけてでも行動することによって、とても苦しいけれども真実の核心を得ることもある。

 身を棄てる、命を捨てるという強い言葉が使われているけれど、日常生活の瞬間瞬間が生命に関わっていると思っている。

 瞬間の行動によって命を落とすということは別に珍しいことではない。行い一つで罪に問われることだってあるし、周囲の信用を失ってしまうことだっていくらでもあることだ。

 瞬間瞬間の行動がすべてだ。その行動は大宇宙の真理に合致していなければいけない。一つ一つの言動が人間の価値を決める。

 なんとか大臣がコロナの緊急事態宣言に関して「ランチも危険」と発言して、色々言われている。ニュースは報道機関の考え方で伝え方はどのようにでもなるから、すべてを信じることはしない。ただ、昼だろうが、夜だろうが、大勢が集まるところでべちゃくちゃしゃべりゃ、リスクがあるなんて当たり前で、そんなこともわからない国民がたくさんいるなら情けない話だと思う。通勤のとき「昼から飲めます」という張り紙をしている店があったけど、似たようなもんだ。みんなが一人で黙って飲んでるんならまだしも、酔っぱらって大声だしゃどうしようもない。

 一方で政府にしても自治体の首長にしても、体裁はいいけど「棄身」「捨命」というような気概が伝わらないのも事実だと感じる。どこぞの知事のようにパフォーマンス見え見えではしらけるけど、「棄身」「捨命」の気概があるならば、適切な時期に適切な施策を適切に知らせ、実行できるはずだ。

 政治には期待している。ただ、その前提として私自身は坐禅して普通に行動していく。