正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その七十七

 岩波文庫138ページ「生は柏樹子(はくじゅし)のごとし。死は鉄漢のごとし。柏樹はたとひ柏樹に礙(げ)せらるとも、生はいまだ死に礙せられざるゆゑに学道なり」

 生を例えて言えば、庭に生えている柏の木のようにごく普通にあるものだともいえるし、死を例えるなら坐禅している安定したまるで鉄のような状態だということもできる。柏の木は柏の木として存在するわけだが、生は死に邪魔されるようなことはないことから、仏道を学ぶことができる。

 生や死を色々と言葉で表現することはできる。しかし、肝心なことは、現在この瞬間生きているからこそ坐禅ができる、仏道修行ができるということだ。

 コロナで色々と制約が生まれる。いつコロナに罹患するか分からないし、死を迎えるかもしれない。ただ、生死はコロナで強調され意識にのぼるようになっただけのことで、コロナがなくたって、今この瞬間生きていたとしても突然死を迎えることがあるというのは、当たり前のこと、普通のことだ。

 緊急事態宣言とか変異種とか騒いでいるけれど、結局のところは一人一人がどう行動するかしかない。変異種が現れたというけど、ウィルスが変化していくというのは普通のことじゃないのかな。ウィルスに「変化するな!」とも言えないし。

 政治家は、本当に大局的に最悪シナリオもきちんと持って、今何をすべきか、きちんと行動して欲しい。何か起こるたびにあたふたしたり、国会でどうでもいいような、言ったところで何がどうなる訳でもないような些末なことで声を荒げたり、もうやめたらいかがですかね。

 人間は今この瞬間しか生きられない。だからどう生きるかがすべて。どう生きたらよいかは坐禅するしかわかる方法はない。