正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十三

 岩波文庫156ページ「かるがゆゑに、古仏いはく、「体取那辺事(たいしゅなへんじ)、却来這裏行履(きゃらいしゃりあんり)。」

 そのようなことであるから、過去の仏と言われる方がいうことに、「頭の中で考えたこと(那辺事)を体に取り入れ、今この瞬間にこの場所で実行するのだ」ということがある。

 理想を掲げること、思想を持つこと、それが大事であることは言うまでもない。しかし、それを自分のこの心身で実行、行動しなければ何の意味もない。

 前回も書いたけど、皇室の婚約者とかいう人も、いくら立派な(当人は立派だと思ってるでしょう)文書を書いてみたところで、行動がないのであれば、評価しようがないんじゃない。

 今の世の中、言論を偏重しすぎだと感じられてならない。言葉は氾濫しているけど、問題は現実には何がどうなっていてどのようなことが行われているか、どう行動しようとしているか、ではないだろうか。

 言葉だけ達者なのは正直幼いと思う。政治家もメディアも言葉は立派だが、だからどうするんだというのが見えない。政府や自衛隊がやることが嫌いで意地悪してるに過ぎないと思われることを報道したりしている。これってどうなんですかねえ。

 世の中を、対立の構図でしか捉えられないのも幼いと思う。

 坐禅して、大宇宙の広大さ、大宇宙の真理に心身で触れれば、上のような幼さに気づくんだけどなあ。