正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その十七

 岩波文庫153、154ページ「無仏無人の処在に百千万ありといへども行仏を染汚せず。ゆゑに行仏の修証に染汚せられざるなり。」

 頭の中では、仏も人もいないという場所や無ではなく百千万というような膨大な数を観念としていじくり回すことはできるけれども、実際に行動を通して真理を追求するということは、そのような観念で理解できることではなく汚すことはできない。そのため、実際に行動を通して真理を追求することは、観念的な修行とか悟りとかいうものとは別であって」、そんなもので汚すことはことはできない。

 どのように行動するかがすべてだ。行動に価値がある。コロナだって、もう蔓延防止とか緊急事態とか言葉とか効果があるのかないのかわからない「自粛要請」なんてものは効果が無い。ワクチンという具体的なものが出てきたって、いつどうなるのかよく見えていないというのが実際の所ではないだろうか?

 現実の見通しが「掛け声だけ」で何も見えなきゃ、そりゃそんな掛け声には誰も従わないでしょう。

 行動にしか価値はないことが改めてよく分かると思う。

 坐禅しましょう。