正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十九

 岩波文庫168ページ「 この展事投機のちから、功夫(くふう)をうるに、威掩万法(いえんまんぽう)、威、万法を掩ふ(おおう))なり、眼高一世(げんこういっせ 眼、一世に高し)なり、收放をさへざる光明あり、僧堂・仏殿・廚庫(ちゅうく)・山門。さらに收放にあらざる光明あり、僧堂・仏殿・廚庫・山門なり。さらに十方通のまなこあり、大地全收のまなこあり。心(しん)のまへあり、心のうしろあり。かくのごとくの眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)、光明功徳の熾然(しねん)なるゆゑに、不知有(ふちう)を保任せる三世諸仏あり、却知有(きゃちう)を投機せる貍奴白牯(りぬはくく)あり。この巴鼻(はび)あり、この眼睛(がんぜい)あるは、法の行仏のとき、法の行仏をゆるすなり。」

 自ら現実の中で一生懸命行動していく(展事投機)ことの力について取り組んでいくことにより、その行動の威儀は全世界を覆う(行き渡る)、また一段高い見地から現実世界を見ることが出来る、行動を慎重にしたり思い切って行ったりすることが出来る輝かしさがある、それは具体的には寺の僧堂・仏殿・廚庫・山門のような現実に存在するもの(観念的。抽象的なものではない)である。また行動を慎重にするとか思い切ってやるとかいうことではない(そういう理屈ではない)輝かしさというものもある。それは具体的には寺の僧堂・仏殿・廚庫・山門である。さらに世界全体を見通す眼というものがあり、大地すべてを視野に収める眼というものもある。心という人間が生きている真実は瞬間瞬間のものであるから、瞬間の前後というものがある(瞬間が連続している)。このように視覚、聴覚、嗅覚、味覚、身体の感覚、それら感覚を受けての精神の働き、これらが光り輝きその機能の発揮が燃え盛るような状態であるから、理屈の世界での有るとか無いとかいうことなど知らないということをしっかりと身に着けた(観念論・抽象論は関係ない)過去・現在・未来の仏といわれる方々がおられるし、猫とか狸(貍奴白牯)のような具体的なものは知っているという状態もある。このように自分をしっかりとつかみコントロールし、現実をしっかりと見つめることができるのであれば、大宇宙の真理が仏としての行動を説き、大宇宙の真理が仏としての行動が可能なようにしているのである。

 人間は大宇宙の現実の中に生きている。それは具体的な事実を相手に自分自身に備わっている機能をすべて駆使して瞬間瞬間を一生懸命に生きるということだと思っている。坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動するときには、直観が働き自然と全体が把握でき、積極的に行くべきか、いったん踏みとどまるべきか、瞬間に判断できる。そのようなことをここでは説いておられるのだと考えている。

 報道にしても政治家にしても、1つのことを取り上げてわーわー騒いでいるように思えてならない。ワクチン接種は本当にどの程度進捗しているのか、ワクチンが足りないと言っているけれども、何に対してどれくらい不足しているのか、そうだとしたら何が原因なのか、正直さっぱりわからない。

 オリンピックはやるようだけど、リスクはどれくらいあるのか。安心・安全なんて標語はいいので具体的にリスクをはっきりさせればいいじゃないかと思う。何をどうやったって100%リスク無しなんてことはあり得ない。オリンピックやらなくたってコロナの感染者はしばらく増加するだろう。何がどう問題なのか、全体としてどうなっているのか、もしかしたら誰もわかっていないんじゃないの?そして、なにかちょっとあると、狭い視野でわーわー騒ぐ。正直、お馬鹿さんとしか言いようがないと思ってしまう。

 坐禅しましょう。