正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十七

 岩波文庫156ページ「眼礙(げんげ)の明々百草頭(めいめいはくそうとう)なる、不見一法(ふけんいっぽう)、不見一物(ふけんいちもつ)と動著(どうじゃ)することなかれ。」

  視界の中に映っている明々白々とした存在について、自分にはわからない、自分には見えないなどとおろおろしてはいけない。

 坐禅した心身で見る神羅万象は大宇宙そのものであり、見えるとか見えないとかそんな頭の中のでこねくり回すようなことは超越して、あるがままなのだ。

 目の前の事実が何かが肝心なのに、理屈ばかり言ってもしょうがない。もっともらしいこと言っても、じゃ何をするんだ?というとそれは他人任せ。そんなことばかりみたいに見えて仕方ない。

 坐禅した心身で事実を見るというか、坐禅した心身では事実・真実しか見えない。

 人間どう生きたっていい。それは自由だ。けど、YouTubeだとかFXだとかで金を手に入れることそのものが生きるということなのだろうか。金は必要だが、どう生きようとするのか、生きる価値ってなにかが分からなくなっている時代なんじゃないかと思える。

 何をしてもいいけど、坐禅して大宇宙の真理を体得して行動する以上の価値はないと信じている。