正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手に取ってからその九

 坐禅をしても状況を打破するアイディアが浮かぶことはない、環境も変わらない。でも坐禅は続けていた。
 澤木興道氏の提唱に菩提達磨尊者のところに二祖慧可大師が入門をお願いしたときのことが書いてある。菩提達磨尊者が慧可大師に「入門して何が欲しいか」と問い、慧可大師が「安心(あんじん)を得たい」と答えたところ、菩提達磨尊者が「では心をここに持って来い」と言った、という話である。慧可大師は心をつかまえようとしたがつかまえられない、そこで「不可得」と答え、菩提達磨尊者が「汝がために安心しおわる」としたという。
 「不可得」であり「無所得」なのだから、坐禅しても変わらないのは仕方ないと思っていた。それなのに何故坐禅し続けたのか、と言われたら、「分からない」としか答えられない。敢えて言えば、やめようと思わなかったからということになるだろうか。前にも書いたが、便通はずっと良い。でも「うんこがよく出るから」坐禅していた訳ではない。(うんこがよく出るのはいいことだけど)
 そんな状態が半年も続いただろうか。その頃になって、何かが変わったような感覚が出てきた。あくまで「感覚」であって、体感というほど強くなくて、何というのか、皮膚感覚でもないな、何とも言いようのない「感じ」。考えとかアイディアとか具体的なものでは全くない。本当に「感じ」なのだ。
 それで私の会社における状況が変わった訳ではない。私が新しい対処法を思いついた訳でもない。私はこれまでと同じように行動し、周りの白眼視、敵意、無視も変わらない。辛いことにも変わらない。憤激することも変わらない。けれど、何かが違ってきたように感じていた。でもそれが、もう少しおぼろげではあるが、何となく説明(?)できるようになるには、さらに半年近い時間が必要だった。
 なお、ここで一つお断りしておきたい。個人の呼称についてである。菩提達磨尊者、二祖慧可大師は歴史上このように通称され、提唱にもそのように記述されているので、そのまま記載した。私は澤木興道「氏」としている。師とか老師と書かれることが多いようだが、私は仏門の人間ではない。受戒も受けていないし、以前書いたように坊さんは信じられるのか疑問に思っている。なので、「氏」としている。提唱を読む限り、澤木興道氏は魅力的な立派な方だと思う。しかし、仏門の人間でない以上、そして、相変わらず、坊さんとは距離を取っていたい人間としては、一般的な呼称である「氏」で書いていきたいと思う。