正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手に取ってからその十二

 その「直感」(言葉では言い表せないので、このように書かせていただく)のあと、私はどうしたか。
 それを書く前に、澤木興道氏の提唱の中に「最上のなかに最上なる仏法は、いくら修行しても全く無反応の坐禅のことである」という記述があって、「あれ?自分は反応してしまったのかな、これでは駄目なのかな」と不安になったのも事実である。
 けれど、直感してしまったのだから仕方ない、と割り切るしかなかった。言い訳すれば「どうしたらよいか答えを考えながら、探しながら坐禅したのではない」とは言えると思った。
 それで、私はどうしたか。これまでと何も変えなかった。おかしいものはおかしいので、そのことはずっと主張し続けた。
 ただ、変わったのは、私の主張を受け入れない組織、人間に対して、「今は理解したくないのだな」「理解したとしても今は実行できないのだな」と感じるようになったということ。おかしいと思う。認めた訳ではない。
しかし、「現実はそうなっている」。だから憤激はなくなった。
 そうなったとはいえ、会社の状況が変わる訳でもないし、人間関係が変わる訳でもない。私が評価され、認められたなんてことは全くない。
 敢えて言えば「現実を体感した」とでも表現するのだろうか。頭で考えて「現実はこうなっている」と理解したのではないので、「体感」と書いてみた。環境が辛いものであることに変わりなく、明るい見通しなど全くなくストレスがかかっていることに変わりはないが、以前書いたような、坐禅していて体が動いたり、叫びそうになったりすることは、なくなった。