正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その七十九

 岩波文庫138ページ「圜悟(えんご)禅師いはく「生也全機現(しょうやぜんきげん)、死也全機現(しやぜんきげん)、逼塞太虚空(ひっそくだいこくう、原本ではひつは門構え)、赤心常片々(せきしんじょうへんぺん)」」

 圜悟禅師の言葉として「生きるということは人間・大宇宙の全機能が現れているものであり、死もまた同じである。全機能は大宇宙に満ち溢れており、その中で飾ることのないまっさらなひとつひとつの心が存在しているのである」。

 人間は大宇宙そのもの。人間は大宇宙と同じく尊い存在だ。何でもできる。何でもできるが、そのときに必要なのは赤心=まっさらな心、欲望や見栄や社会的地位みたいな人間が頭の中で考えているラベルがくっついていない心でなければいけない。そのためには坐禅が必要だ。

 生きていても、死んだとしても、もともと大宇宙そのもなのだから、何も変わるとこはない。どんな状態であってもまっさらな心で瞬間瞬間を一生懸命行動していけばいいと思っている。死んだことはないから、死んだらどうなるか知らない。ただ「死也全機現」であり、生と変わることはないのだろうと思う。そうは思うけど今は生きているのだから生きていることに全精力を傾ければいい、そう思っている。知らない「死」のことをあれこれ考えても意味はないし、そんな暇はないと思っている。坐禅したからといって、日々安穏に暮らせるわけではない。常に苦心惨憺、必死に今この瞬間行動するしかない。

 人間はすごい存在なのだ。けれど、小さな脳みそで考えたことに囚われて自らつまらない存在になってしまっている。政治家を見ても与野党とも何だか浅はか、薄っぺらく見えてしまうのは気のせいかなあ。圜悟禅師の言葉を読んでほしいなあと思う。