正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その四

 岩波文庫141ページ「万物にさへられず、緒境にかゝはれず。物は去来し境(きょう)は生滅すれども、霊知はつねにありて不変なり。此(この)霊知、ひろく周遍せり。凡聖含霊(ぼんしょうがんれい)の隔異(きゃくい)なし」
 肉体に宿っているものは、何物にも邪魔をされることはなく、どのような環境にあっても関係ない。様々な物事は去っては来るし、環境は様々に変化するけれども、「霊知」は常にあって不変である。この霊知は、この世界の隅々まで行き渡っている。霊知は凡人だろうと聖人だろうとどのようなものでも異なることはない。
 要は、霊知、霊魂、霊性は不変で、それは誰にでもある、ということなのだろう。
 普通にイメージする仏教、あるいは宗教はこういうものではないだろうか?
 しかし、これまで書いてきたように仏教は、この現実の世界での日常生活を、その瞬間瞬間大宇宙の真理に即して行動していくことを目指すものだと私は思っている。大宇宙の真理に即して行動していくためには頭で考えても不可能だから、坐禅しなければならない。(仏教理論は不要ということではない。正法眼蔵は絶対に読まなければいけない)
 仏教は精神論、観念論ではない。霊知とか霊魂とか霊性だとか、そんな議論をすることは仏教とは関係ないと私は思っている。
 ミャンマーは仏教国といわれてるのに、あのような騒ぎになっている。あれは軍隊による権力維持、権益維持のための混乱だと思っている。その意味では、ミャンマーの国全体に真の仏教は行き渡ってないということなのだろう。
 人類は大宇宙の真理に行き着かなければ滅亡するしかない。それは間違いない。少しずつ大宇宙の真理に近づきつつあるとは思うが、坐禅を核に据えた仏教が広まることが一番の近道だと思うけど、そうは中々なりそうもないですねえ。