正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十四

 岩波文庫166ページ「その参究の兀爾(ごつじ)は、万回(ばんうい)これ心(しん)の明白(めいびゃく)なり。三界ただ心の大隔(だいきゃく)なりと知及(ちぎゅう)し会取(ういしゅ)す。この知及会取、さらに万法なりといへども、自己の家郷を行取(あんしゅ)せり、当人の活計を便是(べんし)なり。」

 (心を参究するという)その参究とは坐禅する(兀爾とか兀兀地というのは坐禅のこと)ということであり、その時自分と取り巻くすべてのものが、心と一体であるということが明白になる。三界唯心という言葉があるが、そのような頭の中の言葉から離れたものであると知り理解するのである。この知る理解する対象は大宇宙であるけれども、それは結局のところ自分の家つまり日常生活において一生懸命行動することであり、自分自身の活動そのものなのである。

 YouTuberという人たちが30人集まって誕生パーティやったとか報道されているけど、若い人は普通にやってるんじゃないのかなと思う。何故報道するのか意味が分からない。まあ報道する側は、見たり聞いたり読んだり要は儲からなきゃ困る訳で、その意味でYouTuberという人たちは「報道する価値がある存在」ということなのかなと思う。新聞だろうが、テレビだろうが報道機関は「報道する価値がある」という「判断基準」を以て報道するものを決めているわけだから、そこに取捨選択、その会社の方針が反映されるのだから報道を鵜吞みにしたら危ないに決まっている。報道されたもので右往左往したってしょうがない。私はそう思っている。

 毎回同じことしか書かない。周囲が何と言おうと何をしていようと、坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動する、日常生活の瞬間瞬間を一生懸命行動する、そこにしか人間の価値はないのだ。そう信じている。