正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十八

 岩波文庫167、168ページ「しかあればすなはち、為法為身の消息、よく心(しん)にまかす。脱生脱死の威儀、しばらくほとけに一任せり。ゆゑに道取あり、万法唯心(まんぽうゆいしん)、三界唯心(さんがいゆいしん)。さらに向上に道得(どうて)するに、唯心の道得あり、いはゆる「牆壁瓦礫(しょうへきがりゃく)」なり。唯心にあらざるがゆゑに牆壁瓦礫にあらず。これ行仏の威儀なる、任心任法・為法為身の道理なり。さらに始覚本覚等の所及にあらず。いはんや外道二乗、三賢十聖(さんげんじっしょう)の所及ならんや。この威儀、ただこれ面々の不会(ふうい)なり、枚々の不会なり。たとひ活驋々地(かつぱつぱつち)も条々聻(じょうじょうにい)なり。一条鐵か、両頭動(りょうとうどう)か。一条鐵は長短にあらず両頭動は自他にあらず。」

 そういうことであるから、法のために生きる・自分自身のために生きる、どちらも坐禅した境地=心に任せるのである。生死を超越している威儀のある姿というのも坐禅した境地=仏(ほとけ)に任せるのである。その故の言葉がある「万法唯心、三界唯心」つまり森羅万象が心であり、欲界・色界・無色界の三界も心である。さらに一歩推し進めた「唯心」についての言葉がある、それは「牆壁瓦礫」である。つまり心とは垣根であり壁であり瓦であり石ころである。唯心が分かっていないから、心と牆壁瓦礫が別なものとなっているのだ。大宇宙の真理と一体となって行動する仏の威儀のある姿というのは、法に任せ心に任せ、法のため、自分自身のためというのが本来の姿なのだ。さらに言えば、この瞬間に真実が分かったとか、真実はもともと備わっているとかいう理屈の及ぶところではないし、仏教以外を信じている人、経典を読んでいるだけの人、環境を整えることで仏教を学ぼうとする人、菩薩の人々の及ぶところではない。威儀とは何かといえば、理屈ではわからないがそれぞれの人が一生懸命に生きていることであり、理屈ではわからないが色々な状況の中で生きていることなのである。たとえ非常に活発に活動しているとしても、それぞれその時を生きているだけのことであるこの世界は一本の鉄の棒のようなものか、二つに切れたミミズの二つともが動いているようなものか。そのとき、鉄の棒は長い短いなどという尺度で測るものではなく、二つにきれたミミズのどちらかが主でどちらかが他(主体と客体)というようなことではない。

 かなり長くて難しいところだけれど、私は「心=大宇宙」と考えてよいと思っている。だから万法唯心であり、三界唯心なのだと思っている。心とこの世のすべての存在、森羅万象は別々に存在する訳ではない。だから心=牆壁瓦礫なのだ。どちらか片方しか無いなんてことはあり得ない。当たり前のことだけど、往々にして現実を無視した議論や主張が行われていると感じる。

 考えることは大事だが、考えに囚われてはいけない。世の中の議論を聞いていると、両頭動の自他を巡って議論しているように見えてならない。ミミズが二つに切れて両方が動いているのを見て、どちらが主体だなんてどうでもいい。こんなレベルの議論がされているように思われてならない。選挙演説聞いていると2つに切れたミミズの話に聞こえる。

 言葉ばかりが散乱している。都知事がいつ倒れてもいいと言ったとかいうけど、いつも書いているとおり、人間瞬間瞬間が生死の境目だ。当たり前のことを人前で一大事のように言う世の中ってどうなんですかね?

 坐禅しましょう。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十七

 岩波文庫167ページ「雍容(ようよう)の破顔(はがん)あり、瞬目あり。これ行仏の威儀の暫爾(ざんじ)なり。被物牽(ひもつけん)にあらず不牽物(ふけんもつ)なり。縁起の無生無作(むしょうむさ)にあらず、本性・法性(ほんしょう・ほっしょう)にあらず、住法位にあらず、本有然(ほんゆうねん)にあらず。如是を是するのみにあらず、ただ威儀行仏(いいぎぎょうぶつ)なるのみなり。」

 (釈尊が魔訶迦葉(まかかしょう)に法を継いだ時のように)穏やかににっこりと瞬きをする。このようなことが、大宇宙の真理と一体となって行動する仏の威儀が現れている時である。周囲のものや頭の中の考えに引っ張られるのではない、そのようなものに取り合わないのである。いろいろなものの関係の中から生じないとか何もしないということではないし、本来の性質であるとか宇宙の法則とかでもない、宇宙の中に生きているとかいうことでもないし、もともとのあり方であるということでもない。あるがままでよいとするだけでもない。ただ大宇宙の真理と一体となって行動する仏には威儀が備わっているということなのである。

 ○○にあらずということが続いているけれども、ここは言葉の上での観念論ではないのだ、ということだと思っている。破顔微笑(はがんみしょう)、瞬目というような具体的な行動そのものにしか威儀は備わらないということだと思う。

 日常生活の1つ1つの行動が問題なのだ。酒酔い運転で小学生の列に突っ込むという結果が生じたのは、運転手の日常の行動がおかしかったからであり、勤務している会社の日々の業務のあり方に問題があったからであり、行政が地域の実情を捉えようとする日々の活動に問題があったからだ、そう思う。

 路上禁煙といっても守らない、歩きスマホは危険といってもやめない、駆け込み乗車は危険といってもやめない、こういうものを軽視してはいけない。このような間違った行動をとることと上の酒酔い運転事故は本質的には同じだ。日常生活の瞬間瞬間の行動にしか、その積み重ねにしか人間の価値はないのだから。

 坐禅しましょう。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十六

 前回についてちょっと補足したい。それは「満眼聞声(まんげんもんしょう)、満耳見色(まんにけんしき)、さらに沙門壹隻眼(しゃもんいしゃくげん)の開明なるに、不是目前法なり、不是目前事(ふしもくぜんじ)なり」の箇所だ。

 満眼聞声(まんげんもんしょう)、満耳見色(まんにけんしき)について、岩波文庫の脚注には「声を聞くのは耳だけではなく、色を見るのも目だけではない。全身心のはたらきである」とされている。そのとおりだと思う。

 私なりに思っていることを書いてみる。坐禅していると、自分が大宇宙の中にいる、自分は大宇宙の一部だと感じることがある。大宇宙の一部が人間という形をとっている、と言ってもいいかもしれない。ただ、これはいわゆるスピリチュアルとかいうものではない。本来の状態に戻っただけのことだ。心身がバランスして、頭の中の考え、欲望などから解放されて、「本来の面目」に戻っただけのことだ。

 この状態では、直観が働く。人間は瞬間瞬間行動しなければいけない。瞬間瞬間が生死の分かれ目だ。だから直観が働かないと危険だ。直観はまさに直観なのでうまく説明できないが、目で見る情報、耳で聞く情報以上のものを全身で受け止め瞬時に判断するとでも言おうか(ちょっと違う気もするが)。「あ、これは駄目だな」とか「よし、行け」とか瞬間的に判断できる。坐禅した心身の直観は間違わない。それは大宇宙の真理と一体となっているからだ。仕事をしているときでも、現場によって足を踏み入れた途端「あれ、ここはなんか変だな。問題ありそうだな」と感じることがあって、それは外れたことはない。

 僧侶の目を開けたとしても、その目が見るものは見える範囲のものだけではなく、大宇宙の真理を全身で受け止めるということだと思っている。

 話は少しそれるが、坐禅と瞑想をごっちゃにしている人がいるように思う。毎回書いているけど、坐禅は大宇宙の真理と一体となることだけど、それは当たり前の状態に戻ること、普通の人間になることだ。瞑想のことは全然勉強してないけど、瞑想すると不思議な神秘的な能力が備わるみたいなことを言ってお金をもらっている人たちがいるらしい。どんな能力なのか知らないけど、普通の人間になるのが最高の価値だと思っているので、全く興味がない。

 有名になったり、お金を儲けたりするのが価値だという世の中は、儚いし危険だと思っている。人間が本来の姿になり、普通に当たり前に一生懸命に生きることが人間としての価値ということにならないといけないと思っている。坐禅しましょう。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十五

 岩波文庫166、167ページ「しかあれば、句中取則(くちゅうしゅそく)し、言外求巧(ごんげぐぎょう)する再三撈摝(ろうらく)、それ把定(はちん)にあまれる把定あり、放行(ほうあん)にあまれる放行あり。その功夫は、いかなるかこれ生、いかなるかこれ死、いかなるかこれ身心、いかなるかこれ与奪、いかなるかこれ任違。それ同門出入の不相逢(ふそうふ)なるか、一著落在(いちじゃらくざい)に蔵身露角なるか。大慮而解(だいりょにげ)なるか、老思而知(ろうしにち)なるか、一顆明珠(いっかめいしゅ)なるか、一大蔵教なるか、一条挂杖なるか、一枚面目なるか。三十年後なるか、一念万年なるか。子細に撿点し、撿点を子細にすべし。撿点の子細にあたりて、満眼聞声(まんげんもんしょう)、満耳見色(まんにけんしき)、さらに沙門壹隻眼(しゃもんいしゃくげん)の開明なるに、不是目前法なり、不是目前事(ふしもくぜんじ)なり。」

 1つの言葉の中から真実を得る、あるいは言葉以外のところに真実を求める、このようなことを何回も繰り返し掬い取っていく中で、捉えるという言葉では表現できない捉えるということがあり、すべてを解き放つという言葉では表現できない解き放つということがある。このように追い求めていくものは、生とはどのようなものか、死とはどのようなものなのか、身心とはいったい何なのか、与える・奪うとはどういうことか、任せるのか自分独自の行き方を取るのかどうするのか、というようなものである。これらは1つの門を出入りしているが出会うことはないというものなのか、碁石を打つというような小さな行動の中にすべてが含まれちょっとだけ姿が現れているというものなのか。大所高所から考慮して理解できるというものなのか、何年も年を重ねて知るものなのか。この世界は明るく輝く珠のようなものなのか、釈尊の教えの経典なのか。一本の柱のようなものなのか、一つの面目のようなものなのか、三十年後というような時間の問題なのか、今の瞬間の思いの中に万年の時間が含まれているのか、子細に検討しなければいけない、検討を子細にしなければいけない。この子細に検討するにあたっては眼で声を聞き、耳で物を見る(全身で把握する)、僧侶が1つの眼を開くというのは、目の前の世界を見るのではなく、目の前の事物を見るのではない。

 ここのところは、長く、難解だけれど、私はこれは坐禅しているときの境地の表現だと思っている。全身が大宇宙と一体となった時、人間が色々と考えたり、言ったりすることが混然一体となって受け止められる状態となることだと思っている。坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動するとき直観が働く。目で見る、耳で聞くというようなことを超越して身心全体で把握し、行動することが出来る。

 坐禅した心身の直観は間違うことはない。間違ったとしても、その瞬間「あ!しまった」と気づいて次の行動ができる。

 小学生に酒酔い運転のトラックが突っ込むという痛ましい事故があった。企業や行政に責任はある。だが、究極的には一人一人の行動が正しくできるかに尽きてしまう。法律でどんなに縛っても、安全対策をどんなに行っても、人間の行動が改まらない限り問題は解決しない。

 坐禅してもらいたいが、中々そうはならないだろう。せめて事実関係を克明にして、具体的にどうすれば事故が再発する可能性を下げられるのか、その施策を実施するしかない。その施策を妨げる要因があるのなら、それこそを明らかにしなければいけないだろう。そう思う。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十四

 岩波文庫166ページ「その参究の兀爾(ごつじ)は、万回(ばんうい)これ心(しん)の明白(めいびゃく)なり。三界ただ心の大隔(だいきゃく)なりと知及(ちぎゅう)し会取(ういしゅ)す。この知及会取、さらに万法なりといへども、自己の家郷を行取(あんしゅ)せり、当人の活計を便是(べんし)なり。」

 (心を参究するという)その参究とは坐禅する(兀爾とか兀兀地というのは坐禅のこと)ということであり、その時自分と取り巻くすべてのものが、心と一体であるということが明白になる。三界唯心という言葉があるが、そのような頭の中の言葉から離れたものであると知り理解するのである。この知る理解する対象は大宇宙であるけれども、それは結局のところ自分の家つまり日常生活において一生懸命行動することであり、自分自身の活動そのものなのである。

 YouTuberという人たちが30人集まって誕生パーティやったとか報道されているけど、若い人は普通にやってるんじゃないのかなと思う。何故報道するのか意味が分からない。まあ報道する側は、見たり聞いたり読んだり要は儲からなきゃ困る訳で、その意味でYouTuberという人たちは「報道する価値がある存在」ということなのかなと思う。新聞だろうが、テレビだろうが報道機関は「報道する価値がある」という「判断基準」を以て報道するものを決めているわけだから、そこに取捨選択、その会社の方針が反映されるのだから報道を鵜吞みにしたら危ないに決まっている。報道されたもので右往左往したってしょうがない。私はそう思っている。

 毎回同じことしか書かない。周囲が何と言おうと何をしていようと、坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動する、日常生活の瞬間瞬間を一生懸命行動する、そこにしか人間の価値はないのだ。そう信じている。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十三

 岩波文庫166ページ「この宗旨(そうし)あらはるる、古今のときにあらずといへども行仏の威儀忽爾(いいぎこつじ)として行尽するなり。道環(どうかん)として生死身心の宗旨すみやかに辨肯(はんけん)するなり。行尽明尽、これ強為(こうい)の為(い)にあらず、迷頭認影(めいとうにんえい)に大似なり。回光返照(ういこうへんしょう)に一如なり。その明上又明(めいじょうゆうめい)の明は、行仏に弥綸(みりん)なり。これ行取(あんしゅ)に一任せり。この任任の道理、すべからく心(しん)を参究すべきなり。」

 (前回の生死について)その重要なところはいつ現れるかというと、過去だとか現在というような時間には関わらず、大宇宙の真理と一体となって行動することによってすぐに威儀がすべて現れてくる。生死は途切れることなく続いており、行動するところに生死身心とはどういうものかはっきりとわかる。しっかりと行動する明らかにするというのは、理屈で無理やりやろうとしてもできない。無理やり頭の中の理屈で何とかしようとしても迷った頭で影を追いかけているようなものである。行尽明尽は坐禅して大宇宙の中の自分が照らし出されることである。このように明らかなうえにも明らかにすることは、大宇宙の真理と一体となって行動することによってしっかりと定まる。このことは行動(坐禅)に任せるのである。この坐禅に任せるという道理について、しっかり心とは何かということを学ばなければならない。

 坐禅することがすべて。坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動することがすべてということだと思っている。

 回光返照という言葉は好きな言葉だ。坐禅しているときの状態を言い表している言葉の中でも優れたものではないかと思う。坐禅していると大宇宙の中にひとりぽつねんと自分がいるという感覚が起こることがある。そのとき、あーでもないこーでもないと考えている自分の姿が照らし出される感じがする。自分は何をやっているのか。自分は今どのような状態なのか。大宇宙の中で見たらそれはいったいどのような意味を持つのか。そんなことが照らし出されてくる。そして坐禅した心身は大宇宙の真理に従って行動できるという感覚が生まれてくる。これは坐禅しないとわからない。頭で考えてもわからない。

 経産省の官僚が不正をしたという。一等地のタワーマンションに住み、高級な外車に乗っていたという。別に不正してお金をだまし取るような犯罪をしないなら、どこに住もうが、どんな車に乗ろうが個人の自由だ。親が大金持ちだったりする人もいるだろうしね。

 私が気になるのは、今の世の中「人間が生きる」ということが分からなくなっているんじゃないか、ということ。どこに住みたい、うまいもの食いたい、ブランド物欲しい、なんて外側の飾りみたいなことが生きることの目的になっているのじゃなかろうか。人間何をすることもできる。生きるためには金を稼がなきゃならない。そこは何をしてもいい(犯罪は駄目だけどね)。

 私は結局のところ、人間は大宇宙の真理を体得することだけが生きる意味であり、大宇宙の真理と一体となって行動することが生きる目的だと思っている。その行動は、目立つことなく、人に知られることもなく、ただただ普通に日常生活の瞬間瞬間を一生懸命生きるということだと思っている。そのためには坐禅するしかない。

 そんなつまらないことは嫌だ、というのが今の世の中という気がする。

 しかし、坐禅してみてください。

 

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十二

 岩波文庫165、166ページ「了生達死(りょうしょうたっし)の大道すでに豁達(かったつ)するに、ふるくよりの道取あり、大聖は生死を心にまかす、生死を身にまかす、生死を道にまかす、生死を生死にまかす。」

 生死についての理解についての偉大な生き方をしっかり解明したとき、昔から言われていることがある。それは、大宇宙の真理を体得した方は、生死を自分の心に任せる、自分の体に任せる、生死を大宇宙の真理に任せる、生死は生死でしかないのでそのままに任せる。

 ここで間違ってはいけないのは、心や身に任せると言っても、その心身は坐禅した心身であるということである。大宇宙の真理と一体となった心身だ。だから、生死を大宇宙に任せるということと同じであるし、そのような状態というのは、つべこべ頭の中で考えた理屈などは不要であり、生死は生死でしかないということになる。だから、坐禅した心身で一生懸命日常生活を普通に生きることが、「生死を生死に任す」ということだと思っている。

 自由に生きる、個性を活かす、多様性を尊重する。どれもそのとおりだと思う。ただ、その前提として「人間の価値とは何か」がないと、単なる自分勝手、自己本位の我儘、幼稚な言動になってしまう。世の中で起こっている事件などまさにそんな感じじゃなかろうか。

 もっともらしい理屈は世の中に溢れている。理屈などというものは、立場立場でいかようにでも作れる。お互いに自分の都合の良い理屈を作って喧嘩しているようではレベルが低すぎる。しかし、現在の人類のレベルはこのレベルだと思う。

 坐禅するしか、このレベルから脱することはできない。そう信じている。