正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その二

 岩波文庫181ページ「あるときあまねく方を参徹せんため、嚢(のう)をたづさへて出嶺(しゅつれい)するちなみに、脚指(きゃくし)を石に築著(ちくじゃ)して、流血し、痛楚(つうそ)するに、忽然(こつねん)として猛省していはく、是身非有、痛自何来(ぜしんひう、つうじがらい。是の身有(う)に非ず、痛み何れよりか来れる)。すなはち雪峰にかへる。雪峰とふ、那箇是備頭陀(なこしびずだ。那箇か是れ備頭陀)。玄沙いはく、終不敢誑於人(しゅうふかんおうおにん。終(つい)に敢へて人を誑(たぶら)かさず)。このことばを雪峰ことに愛していはく、「たれかこのことばをもたざらん、たれかこのことばを道得(どうて)せん。」

 あるとき玄沙師備禅師は方々の師を訪ね歩いて仏道を徹底して勉強しようと旅装を整えて山を下りようとしたその時脚の指を石にぶつけてしまい血が出て非常に痛かった。この時突然非常に反省して言ったことは「この身体は本来存在しない(非有)にもかかわらずこの現実の痛みはどこから来るのか」。すぐに山に戻り雪峰義存禅師のもとに帰った。雪峰義存禅師が問うた「山を下りたのと上ったのとどちらがお前さんなのか」。玄沙師備禅師は言った。「私は私の真実に生きているので他人をだまそうというようなことはいたしません」。このことばを雪峰義存禅師は大変喜ばれ「誰でもお前さんが言った言葉を口にはできるが、しかし本当の意味をわかってはいない(お前さんはわかっている)」

 是身非有。仏教の解説書など読むと「本来は存在していない。非有、無なのだ。人間があると思っているだけだ」みたいなことが書いてあることがある。私には全く理解できない。だって存在しているに決まっているじゃないか。百歩譲って存在しないと無理やり思い込んだとして、それで何がどうなるんだ?何が解決するんだ?このブログの最初の方に書いたけど私は組織の中で「何が真実か」を巡って七転八倒した。あの状態、私を執拗に攻撃してくる人間たちは目の前ののっぴきならない、切迫した現実そのものだ。「これは本当は存在しないのだ」なんてあほなことを言ってる暇はない。

 玄沙師備禅師は石につまずいて血が出て激痛を覚えられた。そこで観念的な有だとか無だとかいう概念が吹っ飛び、この現実をしっかりとらえられたのだと思う。だから「観念的な言葉を使って人を誑かすことはしない」とおっしゃったのだと考えている。

 仏教は大宇宙の真理を体得するものだと思っている。大宇宙の真理は森羅万象、自分自身も含めてすべての存在である。現実に存在するのだ。この現実の世界をきちんと捉え、大宇宙の真理に従って瞬間瞬間を一生懸命に生きていく。それが全てだ。

 現実をきちんと捉える。これは難しい。坐禅しない限りできないと思っている。

 コロナの感染者数はこのところ減少傾向にあるように見える。この後どうなるか分からないが、ワクチン接種が進めば理屈としては減少するのではないかと思える。

 面白いのは感染者が減ってきたことを面白くないと思っている報道機関があることですね。感染者数自体のデータが信じられないのじゃないかとかまで言っていた。それなら感染者が増加していた時の数字も「信じられない」と言うべきだったでしょう?数字を自分の都合で勝手に評価を変えちゃいけません。感染者は減ったが自宅療養者が死んだとか、入院できないとか不安を煽るようなことを一生懸命報道している。政府が嫌いなんだろうね。報道機関は自分が伝えたいシナリオがあって、そのシナリオに不都合な事実は報道しないので、ニュースを読むときにはこの記事は誰がどういう意図で書いているのかを頭において読まないと非常に危険だ。

 事実は、真実は、真理は自分自身の中にある。大宇宙と一体となった自分の中にある。坐禅することで大宇宙と一体になることが出来る。坐禅しない限り不可能だ。

 

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その一

 岩波文庫180ページ「裟婆世界大宋国(しゃばせかいだいそうこく)、福州玄沙山院宗一大師(ふくしゅうげんしゃさんいんそういだいし)、法諱師備(ほういしび)、俗姓者謝(ぞくしょうはしゃ)なり。在家のそのかみ釣魚(ちょうぎょ)を愛し、舟を南台江(なんだいこう)にうかべて、もろもろのつり人にならひけり。不釣自上(ふちょうじじょう)の金鱗(きんりん)を不待(ふたい)にもありけん。唐の咸通(かんつう)のはじめ、たちまちに出塵(しゅつじん)をねがふ。舟をすてて山にいる。そのとし三十歳になりけり。浮世のあやうきをさとり、仏道の高貴をしりぬ。つひに雪峰山にのぼりて、真覚大師に参じて、昼夜に辨道(べんどう)す。」

 この世界の中の偉大な宋の国におられた福州玄沙山院宗一大師、いみなは師備と言い、出家する前の名は謝と言った(玄沙師備禅師)。在家の頃漁師で、船を南台江に浮かべほかの漁師たちと同じように魚を釣っていた。その様子は釣り上げなくとも自然と上がってくるのを待っていないのかと思われるようなゆったりとしたものだった。ところが咸通という年代の初めに出家を願った。船を捨てて山に入った。年齢は30歳だった。俗世界はどうなるか分からない不安定なものだと思い、仏道が優れていることを知った。最後に雪峰山に登って雪峰義存禅師の弟子となって昼夜坐禅をしていた。

 一顆明珠の冒頭。「尽十方世界一顆明珠」という言葉を残されたのが玄沙師備禅師なので、まず玄沙師備禅師のエピソードが紹介されている。

 「不釣自上の金鱗を不待にもありけん」「金鱗」は岩波文庫の水野氏の脚注では「真実」とされている。真実=大宇宙の真理は自分の外側にあって追い求める(釣り上げる)ものではない。人間は大宇宙の一部であって、本来は大宇宙の真理そのものなのだ。だけれども頭の中の考え、利得だとか諸々のものに惑わされ大宇宙の真理を見失っている。自分自身を見失っている。

 だから、坐禅により身心をバランスさせ、本来の姿(本来の面目)に立ち返る必要がある。坐禅した瞬間にそうなる。

 アフガニスタンタリバンを巡って混乱が続いているようだ。頭の中の考えに憑りつかれると残酷なことを平然とやってしまう。むしろそれが正義であって、快感・満足感すら覚えるのだろう。どんな思想だろうと、宗教だろうと、殺人をしてでも自分たちの考えを強制しようとするのは、間違いだ。大宇宙の真理に反する。しかし憑りつかれているから「自分たちは正しい」としか思わない。正気に戻ってほしいが、坐禅はしないだろうなあ。

 タリバンに武器や食料などを供給している勢力もあるんだろう。その勢力も自分の考えに憑りつかれている。反対もまた然り。

 地球上いろいろな考えに憑りつかれた者たちがいがみ合い、戦っている。人類はいつまでこんなことを続けていくのだろう。

 坐禅するしかないのだけれど、しないだろうなあ。大丈夫ですかね、このままで。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その九十

 前回までで行仏威儀の巻は終わり。

 坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動する。その時には、全天全地が真実・真理を示ている。本来大宇宙の真理に満ち溢れているのだが、坐禅した心身でないとそのことは分からない。坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動する。そこに威儀が生ずる。

 貧弱な脳味噌が生み出す妄想を素晴らしいものだ、正しいものだと信じ込み、妄想に振り回されている。それが現在の世の中ではなかろうか。

 オリンピックだ、コロナだ、アフガニスタンだ、と騒いでいるが、妄想に憑りつかれた妄言ばかりに見える、政府・与党も野党も報道機関・メディアも、それぞれがそれぞれの妄想に憑りつかれ、自分の妄想が正しいと叫んでいる。

 正気に戻りなさい。いったい今起こっている事実は何なんですか?それすら妄想で歪めてしまっているのじゃないだろうか。

 言葉はもういい。

 坐禅して本来の面目に立ち返り、大宇宙の真理の下行動しましょう。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その八十九

 岩波文庫178、179ページ「しかあればすなはち、三世の諸仏は三世に法をとかれ、三世の法は三世に仏にとかるゝなり。「葛藤窠(かっとうか)」の「風前」に「剪断(せんだん)」する「亙天(かんてん)」のみあり。「一言(いちごん)」は、かくるゝことなく、「勘破(かんは)」しきたる、「維摩詰(ゆいまきつ)」をも非維摩詰をも。しかあればすなはち、法説仏なり、法行仏なり、法証仏なり。仏説法なり、仏行仏なり、仏作仏なり。かくのごとくなる、ともに行仏の威儀なり。亙天亙地、亙古亙今にも、得者不軽微(とくしゃふきんび)、明者不賤用(みんしゃふせんよう)なり。」

 (大宇宙が真実を説いている)そのようなことであるのだから、過去・現在・未来の永遠の仏といわれる方々は過去・現在・未来の永遠の時間の中で大宇宙の真理を説いておられ、過去・現在・未来の森羅万象・大宇宙の真理は、過去・現在・未来の永遠の時間の中で仏といわれる方々によって説かれているのである。人間は様々の苦しさや悩みの中でもがいているけれども(葛藤窠)、それを風が吹くまえに断ち切ってしまう満天の大空があるのみである。満天の大空は一言の下に真実をもって説き伏せてしまう、相手が維摩詰であろうと維摩詰ではなかろうと。そういうことであるから、大宇宙が真理を説いているのであり、大宇宙が真理を実行しているのであり、大宇宙が真理を明らかにしているのであり、真理が大宇宙を説いているのであり、真理が真理を行っているのであり、真理が真理になっているのである。このようなことがすべて真理を実践しているときに現れる威儀なのである。この大空全体大地全体、時間全体において、「行仏の威儀」について、これを得たものは軽く扱うことはないし、明確に体得したものは軽々しく扱ったりはしないのである。

 私なりには、この大宇宙は、大宇宙の森羅万象は真理を示している、坐禅して大宇宙の真理と一体となることにより、大宇宙の真理に基づいて行動できる、行動することで真理が実践され、そこには威儀が生まれる、ということだと思っている。

 仏=法なのだと思っている。大宇宙の真理の現れ方なのだと思っている。

 頭の中の考え、それは思想とか主義とか宗教とかいろいろな形で現れているけれども、ほとんどは妄想なのではなかろうか。妄想である証拠に、犠牲者を生み憎しみを生んでいる。アフガニスタンの実権をタリバンが握ったという。これに纏わって、アメリカ、中国の思惑も絡まっているという。いずれも自身の妄想に囚われているとしか思えない。人類はまだ脳味噌の妄想の時代にいる。しばらくは、色々な妄想同士が罵りあい、自分の利益を求めて相手を攻撃し続けるのだろう。

 いつまで妄想の時代が続くのだろう。妄想の下の混乱に疲れて真理に到達することがあるのだろうか?それならばいいのだけど、悲惨なことが多く起こるだろう。妄想は、それが純粋な妄想であればあるほど残酷になる。妄想は人を酔わせる、正義・真理の名の下に酔った人間は残酷になる。

 坐禅して大宇宙の真理と一体になるしか、人類は救われないと思うが、妄想に憑りつかれた人は聞く耳持たないだろうなあ。下手すりゃ殺されてしまう。でも言います。坐禅しましょう。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その八十八

 岩波文庫178ページ「よろこぶべし、この皮袋子(ひたいす)、むまれたるところは去聖方遠(こしょうほうおん)なり、いけるいまは去聖時遠(こしょうじおん)なりといへども、亙天(かんてん)の化導(けどう)なほきこゆるにあへり。いはゆるほとけ法をとく事は、きくところなりといへども、法ほとけをとくことは、いくかさなりの不知をかわづらひこし。」

 喜ぶべきことは、この我々人間(人間は大宇宙の一部を皮の袋で覆ったもの)は、生まれたところは釈尊の生まれたところからは遠いところであり、生まれたときは釈尊より遅いけれども、この大宇宙一杯、天空一杯の教えを聞くことができる。いわゆる仏が法(大宇宙の真理)を説くということは聞くところだけれども、法(大宇宙の真理)が仏を説くということは、ずっと長いこと知らずに悩んでいたことである。

 法と仏は一体なのだと思っている。だから一方が一方を説くという片道ではない。説くということは双方が重なり合っているのだ。この大宇宙の下、坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動することが全てなのだ。坐禅している限り、この大宇宙の下、常に真理の下に真理に基づいて生きることが出来る。真理に従った直観(智慧)が働くのだ。これくらい救いになることがあるだろうか。

 テレビ局の人間が10人で宴会してその挙句2階から落っこちて骨折したそうな。何回も書いているけれど、人間は行動が全てだ。普段どんなに立派なことをのたまわっていても、酔っ払って2階から落っこちちゃ、そりゃ愚かとしか言いようがない。落っこちなくてもこのご時世に宴会やってるという行動がお馬鹿さん。ばれなきゃいいと思っていたなら、これは下劣な考え方。今この瞬間に何をしたかが人間の価値なのであって、他人が知るか知らないかなんてことは関係ない。他人が見ている範囲ではちゃんとしてますなんて言うのは外道の言いぐさです(外道というのは仏教以外の教えを信じている人たちのことです、念のため)、救いようがない。坐禅して大宇宙の真理と一体となっていれば、宴会などは絶対にできない。テレビ局の人たちの正義・真実は上っ面の言葉だけのものだったということが露呈したということ。

 坐禅しましょう。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その八十七

 岩波文庫178ページ「いま圜悟さらに玄沙に同ぜず、雪峰に同ぜざる道(どう)あり、いはゆる「烈焔亙天(れつえんかんてん)はほとけ法をとくなり、亙天烈焔は法ほとけをとくなり。この道(どう)は、真箇これ晩進の光明なり。たとひ烈焔にくらしといふとも、亙天におほはれば、われその分あり、他この分あり。亙天のおほふところ、すでにこれ烈焔なり。這箇(しゃこ)をきらうて用那頭(ようなとう)は作麼生(そもさん)なるのみなり。」

 いま圓悟克勤禅師は玄沙師備禅師と同じではなく、また雪峰義存禅師とも同じではない言葉を説いている。それは「燃え盛っている炎がこの天空を覆ているがこれは諸仏(坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動している人)が真実を説いているのであり、天空全体の燃え盛っている炎というのは真実が諸仏を説いているのである。」この言葉はまさに遅れて仏道を学ぼうという人々にとっての光明である。たとえ燃え盛っている炎のことはよくわからなくても、この天空全体に覆われていれば自分としての存在ははっきりとあるし、自分以外の存在も同様である。天空全体が覆ているところが即燃え盛っている炎なのである。いまこの場所を嫌って別のところで何とかしようとするのは、一体何をしているのだ?、というだけのことである。

 ここのところは私は安心するところだ。つまり、我々は大宇宙の中にいる。ここで坐禅している限り、真実は我々とともにある。というか真実=我々なのだ。炎のように燃え盛っている日常生活こそが大宇宙の真理なのだ。だからこの瞬間瞬間を一生懸命生きていることが真実であり、そうしている限り我々は仏なのだ。それ以外にどこかに真実がある、生きる場所があると考えてうろうろしてみても、「一体あなた何をしているんだ?」ということ、無駄なことだ。

 小田急線という電車の中で刃物を振り回し、サラダ油を床にまいて火をつけようとした殺人未遂事件があった。事実関係を正確には知らないが、犯人は自分は社会の中で見下され、他人特に女性に対し敵意・殺意を持っていたらしい。

 まさに、自分自身の今この場所この瞬間を一生懸命に生きるのではなく、自分の外側に何かある、外側に対して何かすれば状況が良くなる(あくまでも犯人の主観にとってはだが)と思っていたというように感じられる。道元禅師の言葉を借りれば「作麼生なるのみ」一体何をしているんだ?ということ。

 自分の人生は自分でしか生きられない。どういう状況であろうとそれは変わることはない。だから、自分で瞬間瞬間生きていくしかない。そのためには坐禅して大宇宙の真理と一体とならなければいけない。大宇宙の真理を基準として智慧(直観)によって行動するしかない。

 頭の中で妄想してはいけない。坐禅という行動をし、心身を大宇宙と一体化するしかない。妄想を続けていると、現実と妄想の区別がつかなくなる。この犯人はその典型と思うけれど、今の世の中、妄想に憑りつかれている人間が多いのではないかと感じる。とりわけ政治家やメディア。

 頭の中の考えに執着、頭で考えることばかりを大事にすると、妄想に憑りつかれてしまう。

 坐禅しましょう。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その八十六

 岩波文庫177ページ「圜悟(えんご)いはくの猴白(こうはく)と将謂(しょうい)する、さらに猴黒(こうこく)をさへざる「互換(ごかん)の投機(とうき)」、それ神出鬼没なり。これは玄沙と同条出すれども、玄沙に同条入せざる一路もあるべしといへども、火焔の諸仏なるか、諸仏を火焔とせるか。黒白互換(こくびゃくごかん)のこころ、玄沙の神鬼に出没すといへども、雪峰の声色、いまだ黒白の際にのこらず。しかもかくのごとくなりといへども、玄沙に道是(どうし)あり、道不是(どうふし)あり。雪峰に道拈(どうねん)あり、道放(どうほう)あることをしるべし。」

猴白、猴黒は、二人とも大泥棒。泥棒の腕前がとても優れていたという。

 圓悟克勤禅師は雪峰義存禅師、玄沙師備禅師についてそれぞれ猴白、猴黒に例えどちらも優れているとしている。お互いがその立場から言葉を残しているが、その有り様はまさに神出鬼没、どうなるかわからないほどのものである。このことは玄沙師備禅師の主張に同調することもあるし、いやそうではないとすることも当然あるけれども、炎のように燃え盛っている日常生活(真実)が仏といわれる方々のことであるのか、仏といわれる方々そのものが炎のように燃え盛っている日常生活のことであるのか。猴白・猴黒どちらが優れているか(雪峰義存禅師の言葉と玄沙師備禅師の言葉とどちらが優れているか)ということに関して、玄沙師備禅師は神出・鬼没のように展開をされているが、雪峰義存禅師はどちらがどうこうというようなことには関わっていない(雪峰義存禅師はどちらが優れているかということを超越している)。そうではあるけれども、玄沙師備禅師の言葉には正しいところも正しくないところもあるし、雪峰義存禅師は取り上げて言っていることもあれば、言っていないこともある。

 ここは難しいと思っている。私なりには、ものごとは単純に「こうだ!」と言い切ることは難しい、この世界は色々な側面、色々な状況があり、単純にはいかない、しかし真実・真理はあるのだから一生懸命に瞬間瞬間を生きるしかないのだということなのではないか、と思っている。

 一つの断片を取り上げてあーだこーだ言うのは容易だ。しかし、断片は断片に過ぎない。現実に何がどうなっているのか、それを踏まえてどうするのか、そこが重要だ。

 コロナの感染拡大は事実なのだろう。そして感染者が増えれば収容できる病院・病床が不足するというのは当たり前の話だ。ワクチン未接種の人たちが動き回れば感染者が増えるのは当たり前だ。当たり前のことを深刻な顔して騒いでみても仕方ないのじゃなかろうか。

 結局のところ感染するリスクのある行動を控えるしかない。そして国民がそのように行動しないのは、政府が悪いからなのか?批判するのはいいけれど、現実に実現可能な提言は聞いた覚えがない。「実現可能な」ですよ。絵空事の観念論ではなく。そもそも政府というものが国民全般のためにどれほどのことが出来るのか?そのことはよくよく考えてみた方がいいのじゃないか。

 メディアも大変だ大変だと騒ぎつつ、一方でオリンピックではしゃいでいる。奇々怪々。ジキルとハイド。目の前の人が、このような態度を取っていたら、結構恐い。

 結局のところは、いつものとおりだが、坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動するしかない。念のために付け加えておくけれど、そうしたからと言ってコロナに感染しないなんてことはない。感染者が増えてくればどこで感染するかはわからない。リスクはゼロになる訳がない。感染したら感染したで、一生懸命に対応するしかない。生死は自分ではコントロールできない。これも当たり前の話。