正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その八十八

 岩波文庫178ページ「よろこぶべし、この皮袋子(ひたいす)、むまれたるところは去聖方遠(こしょうほうおん)なり、いけるいまは去聖時遠(こしょうじおん)なりといへども、亙天(かんてん)の化導(けどう)なほきこゆるにあへり。いはゆるほとけ法をとく事は、きくところなりといへども、法ほとけをとくことは、いくかさなりの不知をかわづらひこし。」

 喜ぶべきことは、この我々人間(人間は大宇宙の一部を皮の袋で覆ったもの)は、生まれたところは釈尊の生まれたところからは遠いところであり、生まれたときは釈尊より遅いけれども、この大宇宙一杯、天空一杯の教えを聞くことができる。いわゆる仏が法(大宇宙の真理)を説くということは聞くところだけれども、法(大宇宙の真理)が仏を説くということは、ずっと長いこと知らずに悩んでいたことである。

 法と仏は一体なのだと思っている。だから一方が一方を説くという片道ではない。説くということは双方が重なり合っているのだ。この大宇宙の下、坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動することが全てなのだ。坐禅している限り、この大宇宙の下、常に真理の下に真理に基づいて生きることが出来る。真理に従った直観(智慧)が働くのだ。これくらい救いになることがあるだろうか。

 テレビ局の人間が10人で宴会してその挙句2階から落っこちて骨折したそうな。何回も書いているけれど、人間は行動が全てだ。普段どんなに立派なことをのたまわっていても、酔っ払って2階から落っこちちゃ、そりゃ愚かとしか言いようがない。落っこちなくてもこのご時世に宴会やってるという行動がお馬鹿さん。ばれなきゃいいと思っていたなら、これは下劣な考え方。今この瞬間に何をしたかが人間の価値なのであって、他人が知るか知らないかなんてことは関係ない。他人が見ている範囲ではちゃんとしてますなんて言うのは外道の言いぐさです(外道というのは仏教以外の教えを信じている人たちのことです、念のため)、救いようがない。坐禅して大宇宙の真理と一体となっていれば、宴会などは絶対にできない。テレビ局の人たちの正義・真実は上っ面の言葉だけのものだったということが露呈したということ。

 坐禅しましょう。