正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その八十九

 岩波文庫178、179ページ「しかあればすなはち、三世の諸仏は三世に法をとかれ、三世の法は三世に仏にとかるゝなり。「葛藤窠(かっとうか)」の「風前」に「剪断(せんだん)」する「亙天(かんてん)」のみあり。「一言(いちごん)」は、かくるゝことなく、「勘破(かんは)」しきたる、「維摩詰(ゆいまきつ)」をも非維摩詰をも。しかあればすなはち、法説仏なり、法行仏なり、法証仏なり。仏説法なり、仏行仏なり、仏作仏なり。かくのごとくなる、ともに行仏の威儀なり。亙天亙地、亙古亙今にも、得者不軽微(とくしゃふきんび)、明者不賤用(みんしゃふせんよう)なり。」

 (大宇宙が真実を説いている)そのようなことであるのだから、過去・現在・未来の永遠の仏といわれる方々は過去・現在・未来の永遠の時間の中で大宇宙の真理を説いておられ、過去・現在・未来の森羅万象・大宇宙の真理は、過去・現在・未来の永遠の時間の中で仏といわれる方々によって説かれているのである。人間は様々の苦しさや悩みの中でもがいているけれども(葛藤窠)、それを風が吹くまえに断ち切ってしまう満天の大空があるのみである。満天の大空は一言の下に真実をもって説き伏せてしまう、相手が維摩詰であろうと維摩詰ではなかろうと。そういうことであるから、大宇宙が真理を説いているのであり、大宇宙が真理を実行しているのであり、大宇宙が真理を明らかにしているのであり、真理が大宇宙を説いているのであり、真理が真理を行っているのであり、真理が真理になっているのである。このようなことがすべて真理を実践しているときに現れる威儀なのである。この大空全体大地全体、時間全体において、「行仏の威儀」について、これを得たものは軽く扱うことはないし、明確に体得したものは軽々しく扱ったりはしないのである。

 私なりには、この大宇宙は、大宇宙の森羅万象は真理を示している、坐禅して大宇宙の真理と一体となることにより、大宇宙の真理に基づいて行動できる、行動することで真理が実践され、そこには威儀が生まれる、ということだと思っている。

 仏=法なのだと思っている。大宇宙の真理の現れ方なのだと思っている。

 頭の中の考え、それは思想とか主義とか宗教とかいろいろな形で現れているけれども、ほとんどは妄想なのではなかろうか。妄想である証拠に、犠牲者を生み憎しみを生んでいる。アフガニスタンの実権をタリバンが握ったという。これに纏わって、アメリカ、中国の思惑も絡まっているという。いずれも自身の妄想に囚われているとしか思えない。人類はまだ脳味噌の妄想の時代にいる。しばらくは、色々な妄想同士が罵りあい、自分の利益を求めて相手を攻撃し続けるのだろう。

 いつまで妄想の時代が続くのだろう。妄想の下の混乱に疲れて真理に到達することがあるのだろうか?それならばいいのだけど、悲惨なことが多く起こるだろう。妄想は、それが純粋な妄想であればあるほど残酷になる。妄想は人を酔わせる、正義・真理の名の下に酔った人間は残酷になる。

 坐禅して大宇宙の真理と一体になるしか、人類は救われないと思うが、妄想に憑りつかれた人は聞く耳持たないだろうなあ。下手すりゃ殺されてしまう。でも言います。坐禅しましょう。