正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その八十七

 岩波文庫178ページ「いま圜悟さらに玄沙に同ぜず、雪峰に同ぜざる道(どう)あり、いはゆる「烈焔亙天(れつえんかんてん)はほとけ法をとくなり、亙天烈焔は法ほとけをとくなり。この道(どう)は、真箇これ晩進の光明なり。たとひ烈焔にくらしといふとも、亙天におほはれば、われその分あり、他この分あり。亙天のおほふところ、すでにこれ烈焔なり。這箇(しゃこ)をきらうて用那頭(ようなとう)は作麼生(そもさん)なるのみなり。」

 いま圓悟克勤禅師は玄沙師備禅師と同じではなく、また雪峰義存禅師とも同じではない言葉を説いている。それは「燃え盛っている炎がこの天空を覆ているがこれは諸仏(坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動している人)が真実を説いているのであり、天空全体の燃え盛っている炎というのは真実が諸仏を説いているのである。」この言葉はまさに遅れて仏道を学ぼうという人々にとっての光明である。たとえ燃え盛っている炎のことはよくわからなくても、この天空全体に覆われていれば自分としての存在ははっきりとあるし、自分以外の存在も同様である。天空全体が覆ているところが即燃え盛っている炎なのである。いまこの場所を嫌って別のところで何とかしようとするのは、一体何をしているのだ?、というだけのことである。

 ここのところは私は安心するところだ。つまり、我々は大宇宙の中にいる。ここで坐禅している限り、真実は我々とともにある。というか真実=我々なのだ。炎のように燃え盛っている日常生活こそが大宇宙の真理なのだ。だからこの瞬間瞬間を一生懸命生きていることが真実であり、そうしている限り我々は仏なのだ。それ以外にどこかに真実がある、生きる場所があると考えてうろうろしてみても、「一体あなた何をしているんだ?」ということ、無駄なことだ。

 小田急線という電車の中で刃物を振り回し、サラダ油を床にまいて火をつけようとした殺人未遂事件があった。事実関係を正確には知らないが、犯人は自分は社会の中で見下され、他人特に女性に対し敵意・殺意を持っていたらしい。

 まさに、自分自身の今この場所この瞬間を一生懸命に生きるのではなく、自分の外側に何かある、外側に対して何かすれば状況が良くなる(あくまでも犯人の主観にとってはだが)と思っていたというように感じられる。道元禅師の言葉を借りれば「作麼生なるのみ」一体何をしているんだ?ということ。

 自分の人生は自分でしか生きられない。どういう状況であろうとそれは変わることはない。だから、自分で瞬間瞬間生きていくしかない。そのためには坐禅して大宇宙の真理と一体とならなければいけない。大宇宙の真理を基準として智慧(直観)によって行動するしかない。

 頭の中で妄想してはいけない。坐禅という行動をし、心身を大宇宙と一体化するしかない。妄想を続けていると、現実と妄想の区別がつかなくなる。この犯人はその典型と思うけれど、今の世の中、妄想に憑りつかれている人間が多いのではないかと感じる。とりわけ政治家やメディア。

 頭の中の考えに執着、頭で考えることばかりを大事にすると、妄想に憑りつかれてしまう。

 坐禅しましょう。