正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十五

 岩波文庫158ページ「学人おほくおもはく、「尽乾坤」といふは、この瞻部洲(なんせんぶしゅう)をいふならんと擬せられ、又この一四洲をいふならんと擬せられ、ただ又神丹(しんだん)一国おもひにかかり、日本一国おもひにめぐるがごとし。又、尽大地といふも、ただ三千大千世界とおもふがごとし、わづかに一洲一縣をおもひにかくるがごとし。尽大地尽乾坤の言句を参学せんこと、三次五次もおもひめぐらすべし、ひろきにこそはとてやみぬることなかれ。」

 仏教を学ぶ人の多くは、「尽乾坤」を瞻部洲のことだと思い(インドでは須弥山の周りに4つの大陸があり、その南側の大陸に人間が住んでいてそこを「南瞻部洲」と称した)、あるいは4つの大陸のことだと思い、ただ中国のことだと思い、あるいは日本の国だと思ったりしている。また「尽大地」ということも宇宙がたくさん集まったようなものと思ったり、たった一つの国、一つの地方だと思ったりしている。尽大地尽乾坤という言葉を何度も何度も思いめぐらし考えなければいけない。「広いということだ」といって考えるのをやめてしまってはいけない。

 「尽乾坤」「尽大地」は抽象的、観念的に頭の中で理解するものではない。ここで「三次五次もおもひめぐらすべし」と書かれておられるのは、とにかく頭の中でこうだと決めつけてはいけないということだと思う。結局は坐禅して体感、体得するしかないということだと思う。

 世の中にはいろいろな集団がある。友達のグループ。学級という集団。学校という集団。市町村という集団。会社という集団。国という集団。地球という集団。その集団の中でわっさもっさと争ったり、俺が勝った、俺がリーダーだ、とか健気にやっている。しかしまあ小さなもんだ。

 大宇宙の前では、そんなもの何でもないことだ。

 大宇宙は繰り返すが言葉で観念でとらえるものではない。坐禅して全身で受け止めるものだ。

 そのうえで、この小さな世界のことに対応していかなければいけない。というか、そうでなければうまくはいかない。

 オリンピックについても議論が矮小だと思う。部分部分でぎゃあぎゃあ大騒ぎしている。

 坐禅しましょう。