正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十四

 岩波文庫157、158ページ「しるべし、出生合道出(しゅっしょうごうどうしゅつ)なり、入死合道入(にゅうしごうどうにゅう)なり。その頭正尾正(とうしんびしん)に、玉転珠回(ぎょうてんしゅうい)の威儀現前するなり。仏威儀の一隅を遣有(けんゆう)するは、尽乾坤大地(じんけんこんだいち)なり、尽生死去来(じんしょうじこらい)なり。塵刹(じんせつ)なり、蓮花(れんげ)なり。これ塵刹蓮花、おのおの一隅なり。」 

 知らなければいけない。生まれるときも死ぬときも大宇宙の真理と一体なのである。最初から最後まで素晴らしい宝玉が転回するような威儀がこの現実の世界に現れるのである。仏としての威儀は色々であるけれど、この大地すべてにも現れているし、生きて死ぬその全体にも現れているのである。現実の世界であり、理想の世界でもある。塵刹とか蓮花とか言ってみてもそれは大宇宙の真理のごく一部である。

 生まれて死ぬのは大宇宙の真理の中で、大宇宙の真理と一体となって行われるのである。この世界のすべて、一生のすべてがそうなのだ。現実だ、理想だとか言ってみたところで大宇宙の真理の一部に過ぎないのである。

 本来人間が生きるというのは大宇宙の真理と一体となっているのだから、無限の広さをを持っている素晴らしいものなのだ。それを矮小なつまらないものにしてしまうのは、人間の頭の中でこねくり回した考え、地位・名誉という肩書への執着、利得が欲しいという欲望、過去から続く習慣から脱却できない等様々な要因がある。

 コロナやオリンピックの騒動を見ても、それぞれのごく狭い立場でいがみ合っているように見えて仕方ない。もっと大きな本質的な議論をして、的確な行動してくださいよ。

 プロテニスプレーヤーが会見を拒否したとかで騒動になった。かわいそうだなと思う。

 ただ「プロ」という名前が付いた瞬間に「娯楽」の側面が付き、多くのファン、ご贔屓が金を投じて成り立つ世界になってしまうのも事実だろう。一流と言われる人をめぐっては莫大な金と思惑が渦巻くだろう。それをどう扱うかは、結局は個人の判断になるしかないだろう。

 今のプロの世界の仕組みがどうなっているか知らないし、その世界自体を変えるべきなのか変える可能性があるのか知らない。まあ、欲望と権力闘争があるんでしょうね。

 オリンピックも昔はアマチュアの世界だったのが、今は「プロ」「娯楽」の世界になってしまっているように見える。金と権力闘争やってるんですよね?

 人間がやる以上純粋に美しいなんて至難の業だ。

 しかし、それも含めて現実の世界だ。

 坐禅して大宇宙の真理と一体となって対処してもらいたいなあと思う。