正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十一

 岩波文庫159、160ページ「しばらく功夫すべし、この四生衆類のなかに、生はありて死なきものあるべしや。又、死のみ単伝にして、生を単伝せざるありや。單生單死の類の有無、かならず参学すべし。わづかに無生の言句をききてあきらむることなく、身心の功夫をさしおくがごとくするものあり。これ愚鈍のはなはだしきなり。」

 ここで色々考えてみなければいけない。4つの生まれ方があるとして、その中に「生」はあるけれど「死」はないというものがあるだろうか。また、死だけがあって生はないというものがあるだろうか。生だけ死だけというようなものの有無について必ず勉強しなければならない。ちょっとばかり「無生」などという言葉を聞いて「もう明らかになった、俺は分かった」などといって本当に理解することなく、自分の身心を使ってこの問題を追及しようとしない者があるが、このような者はおそろしく愚鈍である。

 人間は、あるいは森羅万象すべてにとって生死は重要な問題である。だから、自分がこの瞬間生きているとは何か、自分が死ぬとはなにか、色々な角度から考えなければいけないのだと思う。

 よく仏教関係の本を読むと(私の場合は本屋の立ち読みとか、ネットでちょっと眺める程度だが)「無」とかいう言葉がよく出てくる。「自分では生きていると思っても実在としては無なのだ」とか、私には全く理解できないことが書かれているように思う(よく読んでないので、間違っていたらごめんなさい)。そんな、頭の中で「無、無」などとこねくり回していないで、自分の体を使って坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動しなさい、そうしないのはお馬鹿さんだ、と道元禅師はおっしゃっているのだと思う。

 経典を読んで考えるのも大事だけれど、坐禅して行動する中で生死を体感・体得しなければ、この現実に生きている人間としては意味がないと思う。

 生死は観念ではない。現実だ。生死を観念的にとらえる風潮が強くないだろうか。生死についての考え方がおざなりなのに、コロナやオリンピックを議論してもしょうがないんじゃないの?と思ってしまう。