正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五

 岩波文庫151,152ページ「この行仏は、頭々(ちょうちょう)に威儀現成(げんじょう)するゆゑに、身前に威儀現成す、道前に化機漏泄(けきろうせつ)すること、亙時(かんじ)なり、亙方(かんぽう)なり、亙仏(かんぶつ)なり、亙行(かんぎょう)なり」

 大宇宙の真理と一体となって行動する一人一人に威儀が現れてくるのであるから、身体に自然と威儀が備わり、言葉を弄せずとも、大宇宙の真理に導いていくものが溢れていること、それはあらゆる時間、あらゆる空間、仏といわれる人々すべて、すべての行動に及ぶのである。

 言葉で伝えることは重要だ。言葉で的確に表現することが重要だ。

 しかし、その前提として坐禅して大宇宙の真理と一体となっている必要がある。坐禅さえしておけばいい。そうすれば言動に威儀、説得力が自然と備わる。

 それなしに、訳の分からん言葉を吐き散らかしているのが現代ではないか、と思えてならない。だから政治家やメディアの言葉は薄っぺらく、虚しく感じられる。威儀が漏泄してこない。真実に到達していないのだから当然だ。

 「うっせえ、うっせえ」とかいうフレーズの歌が流行ったとか言うけど、そうだろうなと思う。現実をしっかりつかみ、真実を実現するためにどう行動するかなんてことをきちんと説明している言葉など聞いたことが無い。与党も野党も独りよがり。メディアも上っ面のことをもっともらしく言うだけ。

 世の中大丈夫ですかね。坐禅しないと危ないですよ。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四

 岩波文庫151ページ「自性仏等、夢也未見在(むやみけんざい)なるところなり」

 報仏とか化仏とか自性神仏などといろいろ「仏」と称するものがあるが、それらは坐禅した身心で大宇宙と一体となって行動する「仏」などというものは夢にも見たことが無いだろう(本当の「仏」とは何かわかっていない)。

 「夢也未見在」という言葉は正法眼蔵に多く出てくる。本当の仏教を知らず、訳の分からないことを信じている人は、仏教について「夢也未見在」なのだ。

 今の世の中、真実とは何かについて、個人の頭の中の妄想に憑りつかれ、欲望に憑りつかれ、見栄に憑りつかれ、本当の真実など考えない「自分が正しい」と正気を失っている、そういう人が多いと感じる。憑りつかれちゃっているから、うっかり「そうじゃないんじゃない?」なんて言おうもんなら、血相変えて狂ったように攻撃してくる。その異常さに気が付かないのも「憑りつかれている」からだ。

 坐禅して憑き物を落として、本来の面目=大宇宙の真理に立ち戻りませんか。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三

 岩波文庫151ページ「しるべし、諸仏の仏道にある、覚をまたざるなり。仏向上の道(どう)行履(あんり)を通達せること、唯(ただ)行仏のみなり」

 知らなければならない、仏(大宇宙の真理を体得した)の方々が仏道にあるということについては、「分かった」「理解した」というまで待つ必要はないのである(悟りとかを待つ必要はない)。たとえ大宇宙の真理を体得しても(仏となっても)、毎日毎日向上するために大宇宙の真理を日常生活の行動の隅々にまで行き渡らせるためには、ただ仏として行動するのみなのである。

 何回も同じことを書くけど、坐禅した瞬間に仏なのだ。道元禅師も重要なことを何回も繰り返し繰り返し書いておられる。

 そして行動が全てだ。大宇宙の真理に従った行動が全てだ。

 瞬間瞬間いかに行動するか。それは坐禅しない限りわからない。

 大宇宙の真理しか人間が拠って立つものはない。そして坐禅したバランスした身心で現実をしっかりと受け止めなければ行けない。

 今は何だか、わーわー言うだけで、何がしたいんだかよくわからない。真実の実現のためには現実をよくよく見て、どうして行くのかがわからなきゃ駄目だ。非常に時間がかかることもあるだろう。国内だけだって、いろんな人たちがいる。世界になれば、それこそわけわからんくらい複雑だ。

 その中で日本はどうするのかな?

 一人一人が坐禅して、大宇宙の真理に従って瞬間瞬間行動するしかない。

 無理かなあ。

 

 

 

 

 

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二

 岩波文庫151ページ「始覚本覚(しかくほんがく)にあらず、性覚無覚(しょうかくむかく)にあらず、如是等仏(にょぜとうぶつ)、たえて行仏に斉肩(せいけん)することうべからず」

 いま大宇宙の真理がわかった、もともとわかっていたということではない、本質的にわかっているものではなく、わからないということでもない。今までとりあげた(報仏など)の仏は行仏(大宇宙の真理に従って行動すること)に肩を並べることはできない(レベルが低い)。

 つまり、行動がすべてだ。行動が人間の価値を決め、人間の社会のあり様を決める。

 蔓延防止措置とかいくら声高に叫んだって、人々の行動が変わらなければどうしようもない。行動を改めなければコロナの感染は拡大するだろう。それは人々がそういう選択をしたのだから、その結果は受け入れなければならない。人間は進歩し発展することも可能だし、破滅することも可能だ。自由だ。

 何をしなければいけないか。それは坐禅が教えてくれる。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その一

 今回から行仏威儀の巻。ぎょうぶつゐいぎ、と読む。 

 岩波文庫151ページ「諸仏かならず威儀を行足(ぎょうそく)す、これ行仏なり行仏それ報仏にあらず、化仏にあらず、自性身仏にあらず、他性身仏にあらず」

 諸仏は必ず尊い姿、威儀がその行動に備わっている。これが行仏(大宇宙の真理に従って行動する)である。行仏は過去の行いの結果として仏になるということではない、仏というものに変化するということではない、自分の中に仏というものがあってそれが現れてくるということではない、また他人の力で仏になるということではない。

 行動が大宇宙の真理にかなっていなければいけない。それが仏。大宇宙の真理にかなっている姿は美しく尊い。端的に言えば坐禅の姿だ。そして坐禅した身心で行う行動だ。

 澤木興道氏の本の中に、まだ子供の澤木氏が雑用係として永平寺に置いてもらっていたとき、時間が空いたので仏堂で坐禅していたところ、普段澤木氏をこき使っていた婆さんがその姿を見て付し拝んだ、というエピソードが書いてある。

 人間がひたすら無我夢中になって一生懸命行動する姿は美しいと思う。スポーツが感動を与えるとしたら、そういうことだと思う。

 どんなに言葉で言い繕っても、どんなに地位があっても、どんなに資産を持っていても、行動が駄目なら、人間として駄目だ。

 大宇宙の真理にかなっていない行動は、遅かれ早かれ必ず破綻する。

 現実が答えを出す。

 だから瞬間瞬間の行動が重要。コロナだって一人一人の行動にかかっている。坐禅した身心で行動しなければならない。

 政策も勿論大事だが、その政策が正しいかどうかは大宇宙の真理にかなっているかどうかだ。そしてそれを判断できるようになるためには坐禅が必要だ。

 坐禅しましょう。

 

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その三十二

 前回までで即心是仏の巻は終り。

 坐禅した瞬間に心=大宇宙の真理=仏=釈迦牟尼仏釈尊

 現実に生きている中で、瞬間瞬間行動するしかない。その基準が大宇宙の真理であり、それは坐禅することで基準に従った行動ができるようになる。

 非常に単純だが、坐禅に対する誤解や、頭でっかちの観念的な知識や、利得、見栄などなどから、その単純なことができない。

 アメリカと中国が色々と対立しているようだ。お互いの国益があるだろうし、様々な分野であの手この手のつばぜり合いが行われているのだろう。

 日本はどうするのか?私個人的には、中国の考え方・やり方は偏り過ぎと思う。しかし、資源もない、人口減少し高齢化が進む日本はどのように振舞うのか。一人一人が考え、日常生活を送っていくしかない。政治家ばかり批判しててもあまり意味はないし、メディアを過信するのも危険だ。

 脱炭素は必要だろうが、これだって国益が絡んで各国がしのぎを削っている。

 坐禅して、正気に還る、本来の面目に立ち戻ってほしいと思う。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その三十一

 岩波文庫149ページ「いはゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏これ即心是仏なり。過去・現在・未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり」
 いわゆる諸仏とは釈迦牟尼仏釈尊なのである。釈迦牟尼仏とは今この瞬間の心=大宇宙の真理ということなのである。過去・現在・未来に諸仏はあるが、すべて仏という状態であるときは、釈迦牟尼仏なのである。このことを即心是仏というのである。
 何回か坐禅した瞬間に仏となると書いた。これは道元禅師が正法眼蔵の中で書いておられることだ。仏とは釈迦牟尼仏つまり釈尊に他ならない。
 釈尊尊い存在であり、尊敬する方である。しかし、神秘的な存在、超人的存在、いわゆる神のような存在ではない。我々も坐禅すれば釈尊と同じ存在なのだ。
 正法眼蔵を読んで私が一番感銘を受けた、影響を受けたのはこのことかもしれない。坐禅している限り、私は釈尊と同じなのだ。そうして見ると、世の中の利権争い、権力闘争、利益にとりつかれている人たち、そのようなことと一線を引くことができたと思っている。
 世の中から上に書いたようなことはなくならないだろう。しかし、「程度」ということがある。そのことがわかったような気がしている。
 坐禅した身心の状態で大宇宙の真理に従って瞬間瞬間行動していく。そしてそのことは釈尊と同じなのだ。そう確信している。