正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その十九

 岩波文庫154ページ「曹谿いはく「祇此不染汚(ししふぜんわ)、是諸仏之所護念(ぜしょぶつししょごねん)、汝亦如是(にょやくにょぜ)、吾亦如是(ごやくにょぜ)、乃至西天諸祖亦如是(ないしさいてんしょそやくにょぜ)」

 六祖大鑑慧能禅師が言われた「この「坐禅しつつ行動する(坐禅も行動と言えるけど)」ことを、頭の中で観念的に修行とその結果(悟り)と分けて汚さないということは、仏と言われた人たちが護り念じてきたことであり、お前もそうであり、自分もそうであり、インドの仏と言われた人たちもまたそうなのである。

 坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動するところに真理・真実があり従って威儀が備わる。

 上っ面の言葉は、その瞬間に見透かされたり、ちょっと時間が経てば真実・真理ではないことがわかる。

 コロナの緊急事態宣言が延長された。緊急、緊急ってずーっと言ってれば「通常」じゃないの?緊急事態宣言に「威儀がない」。だから、聞かされる方は段々嫌気がさしてくるだろう。それは、緊急事態宣言が真実・真理を伴っていないからじゃないかな。

 坐禅して自分の行動は自分で決めましょう。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その十八

 岩波文庫154ページ「修証の不染汚なるにはあらず、この不染汚、それ不無なり。」

 修行とか悟りとかを汚されることがないと観念で取り扱うものではない。不染汚なのは行動である、その行動というものは、現実の世界のことであるから、「無い」ということはない。

 行動に真理が具現化される。能書きはいいからしっかり現実の世界で行動せよ、ということ。

 そしてその行動の基準は坐禅によって大宇宙の真理と一体となることでしか得られない。

 コロナも能書きはもういいから、具体的なアクションプランをしっかり示してほしいなあ。言葉はもういいよ。虚しさが募るだけだ。

 

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その十七

 岩波文庫153、154ページ「無仏無人の処在に百千万ありといへども行仏を染汚せず。ゆゑに行仏の修証に染汚せられざるなり。」

 頭の中では、仏も人もいないという場所や無ではなく百千万というような膨大な数を観念としていじくり回すことはできるけれども、実際に行動を通して真理を追求するということは、そのような観念で理解できることではなく汚すことはできない。そのため、実際に行動を通して真理を追求することは、観念的な修行とか悟りとかいうものとは別であって」、そんなもので汚すことはことはできない。

 どのように行動するかがすべてだ。行動に価値がある。コロナだって、もう蔓延防止とか緊急事態とか言葉とか効果があるのかないのかわからない「自粛要請」なんてものは効果が無い。ワクチンという具体的なものが出てきたって、いつどうなるのかよく見えていないというのが実際の所ではないだろうか?

 現実の見通しが「掛け声だけ」で何も見えなきゃ、そりゃそんな掛け声には誰も従わないでしょう。

 行動にしか価値はないことが改めてよく分かると思う。

 坐禅しましょう。

 

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その十六

 岩波文庫「しかあればすなはち、修証(しゅしょう)は無(む)にあらず、修証は有(う)にあらず、修証は染汚(ぜんわ)にあらず」
 そういうことであるから、修行という行動とその結果は「無い」訳ではない。しかし修行したから結果が得られる(悟りを開くのような)というようなことが「有る」という訳ではない、修行という行動とその結果は頭の中であれこれ考えて、それを汚すような対象ではない。
 要は坐禅した身心で瞬間瞬間行動することがすべてであって、観念的に有るとか無いとか言うべきものではない。そんなことをすることは仏道を汚すものだ、ということだと思う。
 現代は、頭でっかちの言葉だくさんの時代だなあとつくづく思う。伝染病が流行っている中オリンピックやるというのはどういうことなのか、客観的に説得力のある説明を聞いた覚えがない。メディアも政権が嫌いなメディアは妙な偏った情報を流すし、それを伝えてどうするの?と言いたい情報ばかりのメディアもたくさんある。覚醒剤で高齢の夫を殺したかもしれない女性の情報もたくさん流している。なんだか、世の中何が大事なんですかね。
 坐禅して行動する。大宇宙の真理と一体となる。そうしないと、何だか取り留めのない変な世の中になってしまうと思うけどなあ。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その十五

 岩波文庫153ページ「いひきたる「今猶(こんゆう)は、全「寿命」なり。「我本行(がほんぎょう)」たとひ万里一条鉄なりとも、百年抛却任縦横(はくねんほうきゃにんじゅうおう)なり。」

 ここで言っている「今猶」この瞬間こそが全寿命、すべての価値であり、すべての価値を決めるものである。自分がまさに今行っていることは、頭の中の観念ではずっと続いている一本の鉄の塊=永遠のように見えるが、そんな永遠とか百年とかいう時間の観念など関係なく(自分の中から振り捨てて)自由自在に行動するのである。

 同じことを何回も書く。重要なことは何回も書く。道元禅師が書いておられるから。人間の価値は今この瞬間に何をしているかで決まる。今この瞬間の行動が正しいかは坐禅が教えてくれる。

 今、情報(信用できるかどうかは全く別問題だが)はたくさんある。しかし、大半というかほとんどが「だからどうした」というような類のものばかりだ。言うだけなら簡単だ。そして簡単だからどんどん言い募っておかしな方向に行きかねないと思っている。そしてそのおかしな方向で世の中が捻じ曲がって行きはしないかと不安に思う。

 人間の価値は何か。今の時代はそれを見失っている。そう思う。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その十四

 岩波文庫153ページ「しるべし、菩薩の寿命いまに連綿とあるにあらず、仏寿命の過去に布遍せるにあらず。いまいふ「上数(じょうしゅ)」は、全「所成(しょじょう)」なり。」

 知らなければならない、「永遠の真理・価値(寿命)」というものを、頭の中でこねくり回して、過去から今に至るまでずっと続いているのだとか、過去に遡ってもずっと存在しているのだなどとしてはいけない。今言っている「上数」は数量のことではなく、今現在行動していることなのである。

 過去どうであったとかなどということは意味がない。問題なのは「今現在の行動」なのだ。人間の価値は「今現在の行動」で決まる。私自身誤ったことはする。誤ったことは受け入れるしかない。次にどう行動するかが問題だと思っている。

 覚醒剤で亭主を殺したとかで、55歳年下の若い妻(元妻)が逮捕されとかいう。過去に資産を築いたのかもしれないが、夫も妻も現在のこの瞬間の生き方としては、とても価値があるものとは言えないだろう。妻の方はまだ容疑者だから犯人かどうかはわからないが、人間の生き方として価値がある生き方だと思っていたのだろうか?何回も書くが人間の価値は大宇宙の真理に即しているか、一体となっているか、瞬間瞬間それに沿って行動しているかで決まる。

 メディアの記事や広告など見ると、資産を形成する、金をもうけることが「成功」みたいになっている。

 脱炭素も表面は綺麗だけれど、その裏ではどろどろとした熾烈な経済闘争があるのだろう。

 人間はどう生きたらよいのか?坐禅するしかない。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その十三

 岩波文庫153ページ「かるがゆゑに「我本行菩薩道(がほうんぎょうぼさつどう)、所成寿命(しょじょうじゅみょう)、今猶未尽(こにゅうみじん)、復倍上数(ふくばいじょうしゅ)」なり」

 ここは法華経の寿量品からの引用だそうだ。釈尊がおっしゃったことには「自分は真実を求めて菩薩として修行してきた、その修行のなすところの命は今なお尽きることなく、さらに何倍にもなっていく。」

 ここでの寿命というのは、生物としての寿命ではない。大宇宙の真理というのは永遠に不変であり、それを求めて修行(坐禅)していることは、永遠の価値を持っているということだと思う。そしてそれは、「これでいい」ということはなくずっと修行し、価値を持ち続けるということだと思う。

 坐禅して大宇宙の真理と一体となり、行動する。それは永遠の価値を持っている。

 近頃起こっていることを見ていると、目の前のことであたふたぎゃあぎゃあ。言葉ばかり偉そうなことを言ってるだけで、大宇宙の真理、永遠の価値なんてひとかけらも感じない。こんなことで大丈夫ですかね?人間て何のために生きてるのだろう?