正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その九

 「「是一顆珠(ぜいっかめいしゅ)」は、いまだ名にあらざれども道得(どうて)なり、これを名に認(にん)じきたることあり。一顆珠は、直須万年(じきしゅばんねん)なり。亙古未了(かんこみりょう)なるに、亙今到来(かんことうらい)なり。身今(しんこん)あり、心今(しんこん)ありといへども明珠なり。彼此(ひし)の草木(そうもく)にあらず、乾坤(けんこん)の山河(せんが)にあらず、明珠なり。」

 「是一顆珠」はまだ知られていないけれども真実・真理をを言いえた言葉である。この先知られることになるだろう。一つの輝く美しい珠は時間を超越し永遠のずっと続いているものである。永遠であるから過去が終わらぬうちに現在となる(永遠の中では過去、現在という区分は意味がない)。現在この瞬間の身体があり、現在この瞬間の心があるが、ともに輝く美しい珠である。そこにある草や木とか天地にある山や川などといちいち言う必要はない。すべて一つの輝く美しい珠、明珠である。

 道元禅師は尽十方世界是一顆明珠という言葉を高く評価されている。この世界は、大宇宙は永遠の輝く美しい珠なのだ。一つの事物、時間を個別に取り上げる意味はない。すべてひっくるめて一顆明珠なのだ。

 本来一顆明珠であるこの世の中が、何故翳り歪むのか。人間の頭の中の考え妄想、思惑、利得それらに憑りつかれ自分を真実を見失うからである。

 ミサイルを発射してみたり、総裁選とやらで血眼になったり、総裁選やっている政党を野党とやらがやいのやいの悪口言ってみたり、コロナの感染者が減少したと自慢したり、異常な減少で疑問だと言ってみたり、まあ健気に滑稽でかつ悲惨なことをしていることか。

 真実・真理を誰も語らない、誰も実践しない。これじゃあどうしようもない。

 坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動する、日常生活の瞬間瞬間を大宇宙の真理に基づいて普通に一生懸命に生きる。この当たり前のことが出来ないんじゃ話にならない。

 坐禅しましょう。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その八

 「「尽十方(じんじっぽう)」といふは、逐物為己(ちくもついこ)、逐己為物(ちくこいもつ)(物を逐(お)ひて己(おのれ)と為し、己を逐ひて物と為す)の未休(みきゅう)なり。情生智隔(じょうしょうちきゃく、情生ずれば智隔たる)を隔(きゃく)と道取(どうしゅ)する、これ回頭換面(ういとうかんめん)なり、展事投機(てんじとうき)なり。逐己為物のゆゑに未休なる尽十方なり。機先(きせん)の道理(どうり)なるゆゑに機要(きよう)の管得(かんて)にあまれることあり。」

 「尽十方」この大宇宙というものは、物と自分はともに大宇宙の一部であって区分されるものではないから、物を追いかけても自己であるし、自己を追いかけても物であるのであり、そのことが永遠に続いているのである。感情が生まれると真実から隔たってしまう、そのことを「隔」と言い表しているが、生きるということは瞬間瞬間、頭と顔が入れ替わるようにその場その場で対応するのであるし、その瞬間その瞬間行動していくものなのである。自分と物は同じものであるということが永遠の大宇宙というものなのである。このことはすべての前提であるからここが肝要なところだと言い切れるようなものではない。

 生きるということはこの瞬間瞬間どのように行動するかということである。人間には感情がある。感情によって真実から遠ざかってしまうことはある。しかし、そうだとしてもその瞬間瞬間に時と場合に応じて一生懸命に行動して行くしかない。

 我々は本来大宇宙そのものなのだ。その中で瞬間瞬間万物は変化していく。それに応じて瞬間瞬間行動して行かなければならない。生きていかなければならない。そのためには坐禅して大宇宙の真理を体得し大宇宙の真理と一体となって行動しなければならない。

 コロナの感染者数は減少傾向にあるように見える。この先どうなるかわからないが、ワクチン接種が進めば当然の結果のように思える。

 コロナが大変だと騒いでいる向きもあるようだ。確かにコロナのリスクは厳然としてあるだろう。しかし騒いでいる内容は「情生智隔」ではなかろうかと感じてしまう。感情でものを言っているだけで、現在の客観的データや社会全体のリスク量の変化について冷静な言動が見られないように思える。政府・与党の対応が万全だったとは到底思えないが、一方でではどうすればよいのかという意見も感情論、机上の空論、観念論にしか見えないのが今の政治の情けないところだろう。

 感情を露わにして強い口調で主張するというのは、私には幼さにしか見えない。けれどこういう幼さ、幼稚なレベルの方が喜ぶ人が多いのだろうか。

 瞬間瞬間大宇宙の状況を体得して静かに落ち着いて堂々と対応できない。これではこの先思いやられる。

 政治家がどうであれ、一人一人がきちんと行動できるようになるしか方法はない。

 そのためには坐禅が必要だ。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その七

 岩波文庫183、184ページ「いま道取(どうしゅ)する尽十方世界是一顆明珠、はじめて玄沙にあり。その宗旨(そうし)は、尽十方世界は、広大にあらず微小(みしょう)にあらず、方円(ほうえん)にあらず、中正(ちゅうしょう)にあらず、活鱍々(かつぱつぱつ)にあらず露廻々(ろういうい)にあらず。さらに、生死去来(しょうじこらい)にあらざるゆゑに生死来なり。恁麼(いんも)のゆゑに、昔日曾此去(しゃくじつぞうしこ、昔日は曾(かつ)て此(ここ)より去り)にして、而今従此来(しきんじゅうしらい、而今は此より来る)なり。究辨(きゅうはん)するに、たれか片々(へんぺん)なりと見徹(けんてつ)するあらん、たれか兀々(ごとごつ)なりと撿挙(けんこ)するあらん。」

 「尽十方世界是一顆明珠」という言葉は玄沙師備禅師が初めて使われた。その言わんとするところは、尽十方世界(この世界、大宇宙)は、広大なものであるとか微小なものであるとか四角いとか丸いとか真ん中だとか正しいとかという観念的抽象的な言葉で言い表せるものではない。さらに魚が元気に泳ぎ回るように動いているとか、露わに遥かに続いているとかと表現できるものでもない。もっと言えば、今この瞬間に一生懸命日常生活を送っていることが「生死来去」そのものなのであるから「生死来去」という言葉で言い表せるものではない。このようなことであるから、過去と言っても今この瞬間から去って行ったものであり、現在と言っても今この瞬間に来たものである(今この瞬間に生きるのみ)。一生懸命に勉強するならば、「尽十方世界」は色々なものが個別に存在しているのだと見ることはできないし、不動の姿でどっしりと存在していると考えることもできない。

 ここのところは「尽十方世界是一顆明珠」というけれども、この「尽十方世界」というのは観念的・抽象的なものではなく、今この瞬間の日常生活を一生懸命生きている、必死に瞬間瞬間行動していることそのものが「尽十方世界」ということだと考えている。だから「尽十方世界」は観念的・抽象的な言葉で表現することはできない。

 つまり一生懸命にこの瞬間を生きること・行動することそのものが「尽十方世界」大宇宙そのものなのだ。言葉を弄することに意味はない。

 自民党の総裁選での立候補者とか、野党の政策協定での党首とかの発言を聞いていると、どうしても観念的・抽象的に聞こえてしまう。どうも現実の認識、事実認識が矮小で観念的なんじゃないかと思えてしまう。言っていることは表面的にはもっともだけれど現実感が無い。頭の中の考えに憑りつかれて、現実が歪んで見えてしまっているのじゃなかろうかと心配になる。この世界をどうしたいのか、現実を踏まえてどういう段取りでどのようにしていくのかさっぱりわからない。目の前の選挙で頭が一杯じゃ、甚だ心許ない。そんな程度の政治家しかいないんじゃ、とても不安だ。

 政治家の皆さん、坐禅して身心脱落して、本来の面目に立ち返ってくれませんかねえ。

 無理だろうなあ。私は坐禅して瞬間瞬間を一生懸命生きていきます。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その六

 岩波文庫183ページ「師、来日却問其僧(師、来日却つて其の僧に問ふ)、「尽十方世界是一顆明珠、汝作麼生会(尽十方世界は是れ一顆の明珠、汝(なんじ)作麼生(そもさん)か会せる)」。

僧曰、「尽十方世界是一顆明珠、用会作麼(ようういそも)(尽十方世界は是れ一顆の明珠、会を用ゐて作麼(そも))。」

師曰く、「知、汝向黒山鬼窟裏作活計(知りぬ、汝黒山鬼窟裏に向(むか)つて、活計(かっけ)を作(な)すことを)。」」

 玄沙師備禅師は翌日その僧に質問した。「「尽十方世界是一顆明珠」である。お前さんはどのように理解しているか」

 僧は答えた「尽十方世界是一顆明珠、用会作麼」(昨日の玄沙師備禅師の言葉。理解してどうしようとするのか。)

 玄沙師備禅師は言った「わかった。お前さんは黒山(須弥山の中腹にあって日月の光の射さないところ(岩波文庫脚注))鬼のすみかで生きることが出来る、力量を発揮できる。」 

 僧は「尽十方世界是一顆明珠、用会作麼」と先日の玄沙師備禅師の言葉を繰り返している。これをただ言葉をまねしただけで本質は分かっていないと解釈することもできるように思うが、この後の道元禅師の解説を読むと玄沙師備禅師は僧を評価していると解釈してよいかと思う。

 師の言葉をそっくりそのまま返すというのは自分で納得できていないとできないだろうと思う。

 「汝向黒山鬼窟裏作活計」人間が生きていれば快適、心地よい時ばかりではない。地を這いずりまわるような苦しみの中にいることもある。むしろ苦しみの中にいることの方が多いだろう。

 仏教を信仰すればいつでも幸せに快適に過ごせるなんてことはない。私はそう思っている。

 ただどんな状況においても、苦しみの中でも、大宇宙の真理に従って瞬間瞬間を一生懸命に生きることはできるようになる。そう信じている。

 いつどんな状況になるかはわからない。もちろん坐禅していれば自ら大宇宙の真理に反することはできなくなるが、社会全体の動きは個人ではいかんともしがたい。自然現象は防ぎようがない。

 しかし、どのような時でも、それが光の射すことがない鬼の棲み処であったとしても人間は生きなければいけない、いや生きることが出来る。大宇宙と一体となっていればそれは可能だ。

 今現在のこの瞬間を「嫌だ嫌だ!」と逃げ回ろうとしてもそれは不可能だ。不可能なのに逃げよう、避けようとすれば苦しみは増すばかりだ。

 今この時を、この瞬間を一生懸命に生きなくて、明るい未来がある訳がない。そんな妄想は捨てましょう。

 坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動する。いつでもどこでもそうするしかない。

 

 

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その五

 岩波文庫182、183ページ「つひにみちをえてのち、人にしめすにいはく、「尽十方世界、是一顆明珠(じんじっぽうせかい、ぜいっかめいしゅ)。

 ときに僧問(とう)、承和尚有言、尽十方世界是一顆明珠。学人如何会得(承るに和尚言へること有り、尽十方世界は是れ一顆の明珠と。学人如何(いかん)が会得(ういて)せん)。 師曰(いわく)、「尽十方世界是一顆明珠、用会作麼(尽十方世界は是れ一顆の明珠、会(え)を用ゐて作麼(そも)。」」

 玄沙師備禅師は大宇宙の真理を体得されたのち、人々に示しておっしゃった「この世界全体は一つの輝く真珠のような素晴らしいものだ」

 あるとき一人の僧が質問した。「和尚さんは尽十方世界是一顆明珠とおっしゃいましたが、これをどのように学んで理解すればよいのでしょうか」

 玄沙師備禅師がお答えになった。「尽十方世界是一顆明珠である。理解するなどということをしてどうするのか」

 坐禅することにより頭の中の考えに囚われることが無くなり、心身がバランスしたとき、大宇宙と言うのはバランスのとれた素晴らしいものだと感じる。

 本来大宇宙は大宇宙の真理によりバランスしたものであるのに、人間は自らの思惑、欲望、頭の中の考え(妄想)に囚われ、本来の大宇宙の姿を見失ってしまう。

 このバランスの取れた、輝く真珠のような素晴らしい大宇宙というものは、頭で考えて理屈で理解するものではない。坐禅して体感、体得するものなのだ。だから僧の問いに対し玄沙師備禅師は「用会作麼」理解してどうしようというのかとお答えになっているのだ。

 人間は、特に今の人間は、頭で理解する、頭で考えることに偏っている。思考する、理解することが重要であるのは当たり前だが、そもそも人間が生きるとは何かという根源、この大宇宙の中に存在していることとはどういうことかという根源的なことは、頭で理解できるものではない。坐禅して体得するしかない。

 道元禅師はそのことを伝えるために正法眼蔵をお書きになったと私は思っている。

 まあしかし、ビートたけしさんをつるはしで襲うような奴がいる世界が素晴らしいのか?と言う風に思う人もいるだろうね。変な奴一杯いるからね。つるはしもって襲いに行くなんて大変な労力だけど、妄想に憑りつかれてるから全然平気なんだろうね。頭で考えることばかりに偏重すると、簡単に妄想に憑りつかれ、狂暴、残酷なことを平気でやってしまう。

 しかし、バランスの取れた素晴らしい大宇宙、大宇宙の真理は目の前にある。いや、本来人間も大宇宙の一部でありバランスの取れた素晴らしいものなのだ。その本来の姿を見失ってしまっているのだ。本来の姿に戻りましょう。そのためには坐禅するしかない。

 

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その四

 岩波文庫181、182ページ「ひごろはつりする人にてあれば、もろもろの経書(きょうしょ)、ゆめにもかつていまだ見ざりけれども、こころざしのあさからぬをさきとすれば、かたへにこゆる志気(しいき)あらはれけり。雪峰も、衆(しゅ)のなかにすぐれたりとおもひて、門下(もんか)の角立(かくりう)なりとほめき。ころもはぬのをもちゐ、ひとつをかへざりければ、もゝつゞりにつゞれけり。はだへには紙衣(しえ)をもちゐけり、艾草(がいそう)をもきけり。雪峰に参ずるほかは、自余(じよ)の知識をとぶらはざりけり。しかあれども、まさに師の法を嗣するちから、辨取(はんしゅ)せりき。」

 玄沙師備禅師はもともと毎日釣りをして暮らしていた人であるから、諸々の経典などは夢にも見たことはなかったけれども、真実・真理を知りたいという志がまずもって浅からぬ(深い)ものであったので同輩たちの中で抜きんでる真実・真理を知りたいという気持ちが現れていた。雪峰義存禅師も弟子たちの中で優れた人間だと思い、弟子たちの中で頭角を現している者だと褒めていた。玄沙師備禅師は布の衣服を着ていた(絹織物のような高価なものではなく)。一着の着物を着続けていて破れたら布を継ぎはぎしていたので継ぎはぎだらけであった。下着には紙でできた衣を使っていて、よもぎも着ることもあった(紙もよもぎも保温力があるという)。雪峰義存禅師の下にいてほかの師匠方を訪ねることはしなかった。しかしながら、玄沙師備禅師の法を嗣ぐ力量を学んで体得した。

 まず何よりも真実・真理を知りたい、体得したいという意思が無ければ話にならない。何も始まらない。発心(ほっしん)していなければ、仏教を学ぶことはできない。経典を読むことが大事なのではない。発心することがなければならない。別な言い方をすれば真実・真理を知りたいという意思があれば経典は関係ないということだろう。

 今の世の中、知識偏重だからこういうことは理解されにくいと思うけど、知識がいくらあったって仏教は体得できない。知識量がいくら多くても馬鹿な人間はいくらもいる。知識に振り回されて真実・真理からどんどん離れていってしまう人間が多いように感じる。

 真実・真理を体得することが目的だから、衣類などには無頓着。それはそうだろうと思う。

 今の僧侶ってたいていは世襲なんじゃないだろうか。きんきらきんの法衣なんか着ちゃってる。発心はあるんだろうか。

 真実・真理を追い求め、真実・真理を現実の世界で実践していく。そういう壮大なことが人間が真に生きるということだと思う。それは、坐禅すれば可能だ。

 首相が退陣するという。何だか騒いでいるけれども、どうしてもちまちました騒ぎに見えて仕方がない。与党も野党も大宇宙の真理に根差した壮大な主張、そしてそれを現実に実践していく道筋をうきっちりと示していないと思えて仕方がない。

 頭の中の妄想に憑りつかれた人たちがわちゃわちゃ騒いでいる。報道機関も妄想に憑りつかれわーわー騒いでいる。やれやれ。

 私は坐禅して大宇宙の真理と一体となって日常生活の瞬間瞬間を一生懸命生きていきます。

 

 

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その三

 岩波文庫181ページ「雪峰さらにとふ、備頭陀なんぞ徧参(へんざん)せざる。師いはく、達磨不来東土、二祖不往西天(だるまとうどふらい、にそふおうさいてん。達磨東土に来らず、二祖西天に往かず)といふに、雪峰ことにほめき。」

 雪峰義存禅師はさらにたずねた。「お前さんは何故方々の師を訪ねて真実を知ろうとしないのか。」玄沙師備禅師は答えた。「達磨大師は中国に来られなかったし、二祖(太祖慧可禅師)はインドには行かれなかった。」と。雪峰義存禅師はこの返答を聞いて非常に良いとほめた。

 達磨大師はインドから中国に来られた。これは事実。二祖(達磨大師から法を嗣いだ)太祖慧可禅師は中国にとどまりインドには行っていない。

 それなのに何故達磨大師は中国に来なかったなどと事実と違うことを玄沙師備禅師はおっしゃたのか。

 私の思うに、達磨大師も太祖慧可禅師も大宇宙の真理に従い瞬間瞬間を一生懸命に生きてきた結果、達磨大師は中国に来られ太祖慧可禅師は中国にずっとおられたということなのだと思う。「自分は!自分は!」と自我というか妄想に憑りつかれて行動したのではなく、坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動されたのだと思う。それを玄沙師備禅師はおっしゃっていると思う。

 大宇宙の真理に従って、その瞬間瞬間最適な行動を取る。これが重要だと思う。

 しかしこれは非常に難しい。坐禅していない限り不可能だと信じている。

 池袋で自動車を暴走させ自転車の母子を轢き殺した老人に対し禁錮5年の判決が下されたという。

 この老人は自分には問題ないと思っていただろう。今もおそらくそう思っているだろう。「老い」という問題はあるかもしれないが、本質的には自分自身と周囲の状況が分からなくなっているということが根本にあるのではないかと思う。

 政治家や報道機関は典型的だが、世界を見渡してみても、頭の中の考え=妄想に憑りつかれ自分を見失い、周囲の状況が見えなくなっている人間が溢れているように思う。事実が見えなくなっている人間がたくさんいる。

 この被告の老人は老いによって妄想の程度が強くはなっていると思うが、元々妄想に憑りつかれてたんじゃないかなと感じる。「上級国民」と言う言葉は私には何のことやらわからないし、理解しようとも思わないが、おそらく被告の老人は自分のキャリアに憑りつかれているのだとは感じる。過去どんな地位にあろうが、実績があろうが、今この瞬間に何をしているかが全て。それが人間の価値を決める。キャリアや地位も妄想に過ぎない。そんなものに憑りつかれてどうするのか。

 しかし世の中自ら進んで、喜んで憑りつかれるために努力している人間がたくさんいる。

 正気に戻らないといけない。そのためには坐禅するしかない。