正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 摩訶般若波羅蜜その三

 サステナブルとかいう言葉が流行ってますな。自然環境や経済活動が持続可能となるような取組みだそうな。
 いい加減、地球を滅茶苦茶にしといてなんだそりゃ?と個人的には思う。大体サステナブルを声高に主張してる国って、これまで先頭に立って環境破壊してきた国じゃないのですかね。まあ、これ以上おかしくしないようにするということなんですかね。だったらもう少し謙虚に反省して申し訳なさそうに言うのが普通なのではないのかな。
 こういうことが出てくると、大体2つの種類の人間が出て来るように思う。
 一つは、過激な宗教、信仰と同じでヒステリックに騒ぐ人たち。
 一つは、これを機会に稼ごうという人たち。
 この二番目の人たちが、政治家と結び付いたりして、国益とか企業の利益のために活動してるように思えてならない。サステナブルのためだ私利私欲ではないという大義名分ができるから。既存産業にとって代わる絶好の機会だものね。そしてこの人たちが陰に陽に一番目の人たちを煽ってる。そう見えます。
 もう少し現実を見て、冷静になれないですかね。
 サステナブル自体は当たり前のことなので批判はしてない。当たり前のことなので、ぎゃあぎゃあ言わんで、普通に静かにやればよいと思うだけです。
 ま、私は、よくわかってないんでしょうから、文句言わないでね。無視してちょうだい。そもそも相手にされてないとは思いますが。 
 岩波文庫62ページ「観自在菩薩(かんじざいぼさつ)の、行深般若波羅蜜多時(ぎょうじんはんにゃはらみたじ)は、渾身(うんしん)の照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)なり」
 観自在菩薩は、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)、観音様のこと。アバロキティシュバラの漢訳で観世音菩薩の方が古い訳らしい。西嶋氏は観自在菩薩は人間の生命力の象徴とされている。私はそのことに違和感はないけど、そうじゃないという人もたくさんいるだろう。私にとって宗門とか学問上どう解釈するのかはどうでもいいので、西嶋氏に従います。
 観自在菩薩が行深般若波羅蜜多時、つまり深く正しい智恵に到達するための方法を行っているとき=坐禅しているときのことが書かれている。
 渾身とは全身全霊をこめてということだと思う。
 照見とは、西嶋氏によれば体全体で感じる、直観的に体全体でとらえる、とされている。
 五蘊とは色(しき)、受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)の5つのことで、この世の中を構成している要素。色は物質、受はそれをとらえる心の働き、想はものを考える働き、行は行動、識は行動の結果出てくる心(以上西嶋氏の提唱による)とのこと。
 つまり、坐禅によって体全体でこの世を構成する要素をとらえるということになる。どうとらえるのかというと「空」だととらえる。
 この「空」が厄介。最初の頃に書いたが、本屋で般若心経の解説本を手にとったとき、空について「本当は実在していない。人間があると思うからあると勝手に思っているだけ」と書いてあって呆れかえったと書いた。本来は実在しないとは、私には到底理解できないし、そんな風に理解しようと絶対に思わない。西嶋氏は提唱録第一巻中巻31ページで「特別の喜びも悲しみも、何もない。ただ現実、生(なま)の現実がある訳だ。仏道というのは生の現実に触れるということ」とされている。この提唱は昭和53年7月(1978年7月)に行われている。西嶋氏は平成6年1月(1994年1月)の「般若心経」の提唱で、空とは「ありのまま」とされている。人間の考えが頼りにならない、人間の心の働きは頼りない、そのことを「空」と表現し、したがって現実を「ありのまま」に受け入れることを空と理解すると提唱されている(と思う)。
 これなら、私には理解できる。つまり「この世の中はすべてありのままであると体全体で直観的にとらえる」ならば理解できるし、私の経験とも一致する。
 坐禅とは現実を体全体で感じることなのだ。それが正しい智慧なのだ。
 そうした場合、サステナブルはどうなりますかね。