正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 心不可得その三

 岩波文庫191ページ「あるとき、南方に嫡々相承(ちゃくちゃくそうじょう)の無上仏法あることをききて、いきどほりにたへず、教書(きょうしょ)をたづさへて山川をわたりゆく。ちなみに龍潭(りゅうたん)の信禅師の会にあへり。かの会に投ぜんとおもむく、中路に歇息(けっそく)せり。ときに老婆子(ろうぼす)きたりあひて、路側に歇息せり。」

 ある時南方に釈尊から次々と伝わった真の最高の仏法があると聞いて、(徳山宣鑑禅師は自分が最高の仏教を理解していると思っていたので)憤り、経典をたくさん持って山川を渡って南方に向かった。その時、龍潭祟信(りゅうたんそうしん)禅師の仏教を学ぶ集団があることを聞き、そこに加わろうと向かっていた。その途中で休憩をした。その時一人の老婆が来合せて同じく道端で休んでいた。

 徳山禅師は経典をたくさん集め熱心に読みそれで仏教がわかったと思い込んでいた。仏教は坐禅した心身によって大宇宙の真理と一体となって行動することなのだから、経典の知識があっても仏教を理解したことにはならない。

 ちょっとばかり知識があると、あるいは「あると思い込んで」いると得意満面に滑稽な言動をする人ってたくさんいる。これが会社の偉い人だったり、政治家だったりすると滑稽だけでは済まなくなって悲惨なことになる。報道機関も同じだ。

 選挙戦の最中にNISAに課税するとか、温暖化で北の方の米が美味くなったとか、お馬鹿さんですねえ。

 自分は偉い、いろんなことを知っていると思い込んでいるんだろう。

 知識は必要だが、それに囚われ妄想になってしまってはいけない。

 それを避けるには坐禅するしかない。坐禅しましょう。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 心不可得その二

 岩波文庫191ページ「その験(げん)ちかきにあり、いはゆる徳山宣鑑(とくざんせんがん)禅師、そのかみ金剛般若経をあきらめたりと自称す、あるいは周金剛王と自称す。ことに青龍疏(しょうりゅうしょ)をよくせりと称ず。さらに十二担の書籍(しょじゃく)を撰集(せんじゅう)せり、斉肩の講者(こうじゃ)なきがごとし。しかあれども、文字法師の末流なり。」

 そのことが明らかになる出来事は身近にある。徳山宣鑑禅師はかつて、金剛般若経をはっきりと理解できていると自称し、(もとの姓が周だったので)周金剛王とも自称していた。

ことに(釈道氤(しゃくどういん)が玄宗皇帝のために編んだ金剛般若経の注釈書である)青龍疏をことによくわかっていると称していた。さらに十二人の人が担ぐ分量の書籍を書いたり集めたりしていて、肩を並べる者がいない学者のようであった。ではあるけれど文字ばかりを読んでいて現実の修行をしない法師の末流であった。

 いくら経典を読んで頭の中で「わかったわかった」と思っていても何の役にも立たない。今この瞬間の現実においてどのように行動するかに結び付いていないのなら何の意味もない。

 坐禅をして大宇宙の真理と一体となった身心ならば、今この瞬間の行動に自ずから金剛般若経を活かすことができる。意識せずともそうなる。

 重要なことは現実のこの瞬間に正しいことができるかどうかだ。

 選挙の告示日ということで、党首たちが一列になって拳を握ってポーズをとっている写真を見た。今はイメージ先行の世の中だから、ポーズをとったりするのも大事なんだろうが、結局のところは現実にどういうことができるかだけが問題だ。

 言ってる言葉は立派で威勢がいいが、いったいどうやって実現するんだろう?と首を傾げることを言ってることが多いと感じる。頭の中だけなら何とでも言える。「文字法師の末流」じゃなければいいんだけど、どうも「文字法師の末流」の匂いが濃厚だ。

 現実離れをした、目先の思い付きみたいなことばかり言われても困る。

 人間が生きるとはどういうことかを土台に50年後100年後を見据え、今の現実を見据えた行動ができなければいけない。

 そのためには坐禅が必要だ。坐禅しましょう。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 心不可得その一

 心不可得(しんふかとく)の巻に入る。

 岩波文庫190ページ「釈迦牟尼仏言(のたまわく)、「過去心不可得(かこしんふかとく)、現在心不可得(げんざいしんふかとく)、未来心不可得(みらいしんふかとく)」。これ仏祖の参究なり。不可得裏に過去現在未来の窟籠(くつろう)を剜来(えんらい)せり。しかれども、自家の窟籠をもちゐきたれり。いはゆる自家といふは、心不可得なり。而今(しきん)の思量分別は、心不可得なり。使得(すて)十二時の渾身(うんしん)、これ心不可得なり。仏祖の入室(にっしつ)よりこのかた、心不可得を会取(ういしゅ)す。いまだ仏祖の入室あらざれば、心不可得の問取なし、道著(どうじゃ)なし、見聞(けんもん)せざるなり。経師論師(きょうじろんじ)のやから、声聞縁覚(しょうもんえんがく)のたぐひ、夢也未見在(むやみけんざい)なり。

 釈尊がおっしゃった「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」「心」は過去においても現在においても未来においても得ることはできない。これが仏祖として究められたものである。「心」は「不可得」という真理は永遠のものであるがそれを岩穴や籠で過去・現在・未来とえぐり取って示しているのである。けれどもこの岩穴や籠はまさに自分自身のものなのである。自分自身が生きているというのは現実そのもの今この瞬間の事実であるから「心不可得」であり、これがそうだと掴めるものではない。今この時色々考えを巡らせているがこれが今この瞬間を生きているということであり「心不可得」、こういうものだとつかみ取ることはできない。全身を使って一日二十四時間を生きているが、これが生きているということですと掴めるものではない、「心不可得」である。仏祖に従って仏道を学ぶつまり坐禅をすることによって「心不可得」を会得することができる。仏道を学ぼうとしなければ「心不可得」を問うことも言うことも見たり聞いたりすることもない。経典を読んで議論しているような人間や経典などを見たり聞いたり、あるいは周囲の環境から学んだりする人間などは夢にも未だ見たことが無いのである。

 「心」とは大宇宙の真理、大宇宙の真理と一体となって行動しているこの瞬間のことだと思っている。この「心」は「こういうものです」と捉えることはできない。捉えることはできないが、絶対的に存在する。

 「心」とは何かを頭の中でこねくり回して妄想することに意味はない。坐禅して大宇宙の真理と一体となれば、この心身が大宇宙そのもの、真理そのものになるのだ。

 何回も書いているけれど、大宇宙の真理とはこういうものだと言葉では言い表せない。坐禅するしか体得することはできない。しかしそれでは仏道、仏教を広めることができない。だから仏祖と言われる人々、道元禅師は「心不可得」とは何かを様々な方法で苦心惨憺して伝えようとされている。

 言葉では言い表せないが絶対的に存在する大宇宙の真理と一体となる以外に人間が

生きる意味があるだろうか。

 総選挙で騒いでいる。この選挙区は誰なら勝てる、一本化するのだ、比例全国区に出る、とかとか騒いでますなあ。新党を立ち上げて立候補者を立てると言ったけど時間が無いので間に合いませんなんてコントみたいなこともやってる。

 どれもこれも小手先のおままごとみたいだ。主義主張を堂々と掲げてその主張が共感されれば自ずと当選するんじゃなかろうか?そういう中身が無いから小手先でこちょこちょやって票を増やそうとしている。実に情けない。

 日本も世界も人間が生きるとは何かを見失って、それぞれの妄想であーでもないこーでもないと揉めている。テロで殺し合いをし、武力で威嚇したりしている。

 いつまでこんな低レベルのことをしているんだろう?

 坐禅するしかない。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その二十一

 前回で一顆明珠の巻は終わり。

 大宇宙、目の前のこの現実の世界は明るく輝く珠なのだ。大宇宙の一部である我々も従って明るく輝く珠なのだ。本来の姿は明るく輝く珠なのだ。

 しかし、利得、欲望、思惑など頭の中の考えに憑りつかれ、本来の姿を見失い、真実・真理からどんどん遠ざかり、誤った言動をとってしまう。自ら珠を汚してしまう。

 現在は情報が溢れている。ネット上で多種多様な情報が大量に手に入る。これは素晴らしいことだ。この情報を制限している国もあるようだが、そのようなことをしないと維持できない国家というのは異常だろう。

 けれども情報がたくさんあるということと、真実・真理に基づいて生きるというのはまったく別のことだ。知識がたくさんあるからといって正しいことができる訳ではない。世の中で起こっていることを見ると、むしろ知識に囚われ、振り回されてとんでもないことをしでかしている人間は一杯いる。

 情報や知識を使いこなせなければ、むしろそれらは害悪になってしまうおそれがある。

 北朝鮮のミサイルだの、中国の軍事力の誇示(台湾を威嚇してますね)だの、日大の背任だの、拉致被害者は生きていないと口走る国会議員だの、知識や情報を持っているから質が悪い。知識や情報が害悪となってしまっている。

 大宇宙の真理、真実にもとづいて生きること、これが人間の唯一の根源的な生きる目的、生きる意味だ。ここがしっかりしていなければ何もできない。

 そのためには坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動する、澤木興道氏の言う「宇宙とぶっ続きになる」ことが必要だ。その瞬間我々は明るく輝く珠、一顆明珠になる。

 坐禅しましょう。

 

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その二十

 岩波文庫188、189ページ「しかあれども、われもなんぢも、いかなるかこれ明珠、いかなるかこれ明珠にあらざるとしらざる百思百不思(ひゃくしひゃくふし)は、明々(めいめい)の草料(そうりょう)をむすびきたれども、玄沙の法道によりて、明珠なりける身心の様子をもききしり、あきらめつれば、心これわたくしにあらず、起滅(きめつ)をたれとしてか明珠なり、明珠にあらざると取舍にわづらはん。たとひたどりわづらふとも、明珠にあらぬにあらず、明珠にあらぬがありておこさせける行(ぎょう)にも念(ねん)にもにてはあらざれば、ただまさに黒山鬼窟の進歩退歩、これ一顆明珠なるのみなり。」

 (明珠は仏道修行者そのもの)そういうことであるけれども、自分もそれ以外の人も明るく輝く珠はどのようなものか、明るく輝く珠でないものはどのようなものであるかわからずに様々に考えを巡らせ考えることが出来なくなったりして色々なことを思い描いてきたけれども、玄沙師備禅師の法を説く言葉によってこの心身は明るく輝く珠なのであることを聞いて知ることができ、はっきりとさせたのであるから、心が自分のものではないとか、色々な思いや出来事が起こったとしても明るく輝く珠ではないということはない、明るく輝く珠ではないと取ったり捨てたりなどということにわずらう必要はない。たとえそのようにわずらうようなことがあっても、明るく輝く珠ではないなどということはない、明るく輝く珠ではないことで起こる行動でも考えでもないのであるから、ただまさに今この瞬間を生きることそれが鬼の棲む黒い山の洞窟の中であったとしても、そこで前に進んだり退いたりして一生懸命に生きていること、それこそのみ一顆明珠なのである。

 坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動する、この瞬間瞬間を一生懸命に生きる、そのことが一顆明珠なのだ。大宇宙と我々は同一のものである。大宇宙は明るく輝く珠、素晴らしい貴重なものなのだ。

 坐禅した心身で生きる。それが一顆明珠なのだ。

 人間はちっぽけな脳味噌で考えたこと、妄想に囚われとんでもないことをしでかす。

 ミサイルをばんばん発射し、戦闘機を飛ばして威嚇し、自爆テロで殺傷している。日本国内の政治でもとにかく対立軸を作って悪口を言い合っている。二極論でしかものが考えられないのを幼稚というと思っているが、当人たちは意気軒高だ。妄想は恐ろしい。

 坐禅して大宇宙の本来の姿、人間の本来の姿を取り戻しましょう。

 この世の中で生きることは楽なことではない。坐禅しているからといって安穏に暮らせる訳ではない。しかし例え今の瞬間が黒山鬼窟であったとしても、坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動するしかないのだ。逃げようとすれば苦しみが増すばかりだ。この瞬間を一生懸命に生きる。それが明るく輝く世界、一顆明珠そのものなのである。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その十九

 岩波文庫188ページ「愛せざらんや、明珠かくのごとくの彩光きはまりなきなり。彩々光々(さいさいこうこう)の片々条々は尽十方界の功徳(くどく)なり。たれかこれを攙奪(ざんだつ)せん。行市(あんし)に塼(かわら)をなぐる人あらず、六道(ろくどう)の因果(いんが)に不落有落(ふらくうらく)をわづらふことなかれ。不昧本来(ふまいほんらい)の頭正尾正(とうしんびしん)なる、明珠は面目なり、明珠は眼睛(がんぜい)なり。」

 大切にしないということがあるだろうかありはしない、明るく輝く珠はこのようにそれが持つ様々な色合いや光は無限のものなのである。その様々な色合い、光り輝く様子は瞬間瞬間に存在し次々とつながっていく、これが大宇宙のあり方なのである。これを奪い取ろうとしてもできることではない。市場で(価値のある玉は取るが価値の低い)瓦を投げ捨てるようなことをする必要はない。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という六道の原因結果に陥るとか陥らないとか気に病む必要はない。我々は大宇宙そのものなのだから真実のあり方がわからないということはない。このことは始めから終わりまですべて真実であり、明るく輝く珠は我々本来の面目であり、我々の眼球なのである。

 我々は本来大宇宙そのものである。本来大宇宙の真理そのものである。光り輝く珠なのだ。

 時々「因果」のために不幸になるとか訳のわからないことを言う人がいるが、我々の本来のあり方からすれば、因果に陥るなどとうろたえる必要はない。

 どういう状況であろうと、それはありのままの真実なのだから、きちんと受け止めればよい。苦しいつらいと感じることもある。しかし今この時は苦しくつらい時なのだからそれに対して坐禅した心身で対応していけばいい。苦しいのは嫌だ、つらいのは嫌だと逃げ回れば苦しさつらさが増すだけだ。

 道元禅師の言葉は美しく壮大だ。私は勇気づけられる。坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動する、真実・真理に従って生きていこうといつも励まされる。

 日本や世界を見渡すと、対立の構図ばかりが目に付く。対立の構図でしかものが考えられないというのは幼稚としか言いようがない。坐禅して本来の面目を取り戻してもらいたいと願うけど、難しそうだなあ。

 坐禅しましょう。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その十八

 岩波文庫187、188ページ「即是恁麼(きぜいんも)は、尽十方界にてある一顆明珠なり。しかあればすなはち、転不転(てんふてん)のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。明珠はかくのごとくきこゆる声色(しょうしき)あり。既得恁麼(きていんも)なるには、われは明珠にはあらじとたどらるるは、たまにはあらじとうたがはざるべきなり。たどりうたがひ、取舍(しゅしゃ)する作無作(さむさ)も、ただしばらく小量の見なり、さらに小量に相似(そうじ)ならしむるのみなり。」

 既にこのように大宇宙の真理は存在するのであるから、この世界全体は一つの明るく輝く珠である。そうであるから珠が転がったり転がらなかったりするようにこの世界もいろいろ変化し、表がいろいろと変わるけれど一つの明るく輝く珠であることに変わりはない。まさに珠はこのようなものであるとと知るそのことが明るく輝く珠そのものなのである。明るく輝く珠とはこのようなものだと具体的な音が聞こえてくるし、具体的なものが存在している。既にこのように大宇宙の真理を得ているのであるから「自分はそんな貴重な珠ではありません」とうろたえ悩んだとしても「珠ではない」と疑う必要はない。うろたえ悩み、あれやこれや手にしたり気にしたり、それを捨ててみたりなどとやったりやらなかったりしているけれども、ただその場限りの視野の狭い見方なのである。けれどさらに言えばそれも大宇宙の真理が「狭い視野の見方」という形で現れているだけのことなのである。

 世界は様々に形を変える。一時として同じ姿であることはない。自分自身も一刻一刻姿を変えている。しかしこの目の前の現実の瞬間瞬間の姿は大宇宙の真理そのものなのだ。光り輝く珠なのだ。

 人間は光り輝く珠なのだ。おろおろうろうろしているかもしれないが、光り輝く珠なのだ。それを疑ってはいけない。疑う必要はない。

 自分は駄目だ、そんな立派な物じゃないなんて思う必要はない。光り輝く珠なのだ。

 そのことを体全体に教えてくれるのが坐禅なのだ。坐禅しない限り、この当たり前のことがわからない。

 今度新首相になる人は「傀儡」なんだそうだ。まだ首相に選ばれてもいない、首相として活動もしていないのに「傀儡」と言ってしまうのは如何なもんなんですかねえ。前にも書いたけど、組織には権力者、権限者が存在していて、無碍にはできないというのは普通なんではないのかな。首相をやる人間は一応そういう人の顔は立てて置いて核となる所は譲らないくらいのしたたかさが無きゃとても首相は務まらないだろう。中国、ロシア、北朝鮮、韓国、アメリカ、ヨーロッパなどなど各国の国益を巡ってどろどろの複雑怪奇、魑魅魍魎の世界を相手にしなきゃならないんだから、それくらいのしたたかさが無きゃ困る。

 その力量が有るか無いかは事実が答えを出す。今の時点でぱーぱー言ったって何になるんだろうか。今の与党、政府が嫌いだから必死に悪口言ってるのかな?

 ま、世の中色々です。

 とにかく一人一人が大宇宙の真理に従って生きていくしかない。そのために坐禅しましょう。。