正法眼蔵がなければ死んでいた 正法眼蔵を手に取ってからその七

 澤木興道全集のうちの辦道話が載っている巻だけ買って読み始めた。読むと言っても仕事は相変わらず激務でまとまった時間は取れない。朝晩の通勤電車の中が主な読む時間だった。
 澤木興道氏は魅力的な人だと思った(ちょっと読んだだけで僭越だけど)。以下、印象に残ったところを書いてみる。
 「我というやつが非常に悪い」「坐禅も悟るためのものであってはならない」「坐禅は、長い間坐った挙げ句の果てに悟るといったそんなとろくさいものじゃない。坐禅がそのまま証でなければならぬ」「「内に智慧の光をもって真の法を照らす」これを自受用三昧という昔からの注釈がある。つまりわれわれの坐わる坐禅がこの自受用三昧である」「人間、何にもならぬことをするくらいえらいことはない。何ぞのためにするなら何でもない」「微塵もいつわりのない世界を目指さなければならぬ」「浮世でも一如を行ずるなり。仏道を行ずる」「自己の仏性を疑う、これが一番の罪悪である」「道元禅師のお考えではこの名利ということが、一番悪い。世間でいうと名誉じゃけれども、仏教でいうとそれは恥じである」
 ちょっと引用が長くなりすぎたが、とにかく坐禅を続けようと意を強くした、勇気づけられた。特に一番最後の「名利が仏教では恥じ」は胸を強く叩いた。
 可能性はない事業なのに、親元の会社の意向に添えば評価される、あるいは面倒なことは回避し上手く立ち回って傷を負わないようにする、まさに名利ではないか!
その中でも「微塵もいつわりのない世界を目指さなければならぬ」気持ちは固まって来た。
 ただ、では自分は何をしたらよいのか、これまでどおり闘い続けるのか、そこは分からない。
 とにかく坐禅を続けてみよう、そう思った。