正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案その十五

 正直言って、日常生活に疲れております。職場でも家庭でも、次から次へと色々起こりますなあ。原因不明の頭痛はおさまらないし、結構しんどいです。
 今はそういう時期なので、今やれることを、やれる限りやるしかない。坐禅しながら、何とかしのいでおります。
 この瞬間瞬間、ひたすら生きている、行動しているだけで、自分がやっていることを他人や世間がどう見ているかなんて考えている余裕はない。職場でも同じ。評価は組織の基準でやってね。
 やっていることが、凄いとか偉いとか、考えてやっていられるというのは、やってもやんなくてもいいレベルのことだと思っている。やりたい人はおやんなさい。仏教、仏法の世界のことではないね。
 岩波文庫59ページ「このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず佗(た)にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑに、かくのごとくあるなり」
 今進んでいるところ、いるところ、今この瞬間やっていることは偉大、偉い、素晴らしいとか、小さなことだ、つまらないことだ、大したことない、なんて考えるものではないし、考えている暇などない。そして俺が俺がという主観の世界だと意識するものではなく、自分の外側、客観の世界だと意識するものでもない。行動するときに、主観だ客観だとか分別する暇はない。
 今この瞬間やっていることは、過去からずっと存在するものではないし、今、突然現れたものでもない。そんな過去とか現在とか頭の中で、あれこれ理屈付けするのではない。頭の中ではない、現実だからこそ、ただ、今この瞬間があるだけ。
 ひたすら生きているだけ。つらい、疲れた、暗い気持ちになる、それらも現実。かくのごとくあるなりなのだ。