正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その七十二

 岩波文庫91ページ「常者未転(じょうはみてん)なり。未転といふは、たとひ能断(のうだん)と変ずとも、たとひ所断(しょだん)と化(け)すれども、かならずしも去来(こらい)の蹤跡(しょうせき)にかかはれず、ゆゑに常なり」
 常を変化しないと考える人がいる。この場合の未転、変化しないというのは、(「能」というのは主体、「所」というのは客体、受身)自ら判断したり、判断される側になったりと考えられるけれど、これらは頭の中の観念論であって、現実の事実とは関係ない。現実と関係ないところで、あれこれ言う立場であるから「常」「変化しない」などと言えるのである。
 変化しないものはない。むしろ、状況が変わらないと考える方がおかしいということになる。
 日常生活でも、ちょっとした些細なことで、下手をしたら崩壊する。人間はいつも生死の境目を綱渡りのように生きていると感じている。
 しかし、綱から落ちたら、また綱に登ればいいとも思っている。無常なのだから。常に変化するのだから。
 コロナで大騒ぎだ。もちろん生死に関わるし、一国の経済への影響も大きいから、色々な動きが出るのは当然だ。
 しかし、未来永劫この状態が続く訳ではない。そして、将来、また新しいウイルスは登場するだろう。
 とりあえずは、現在のコロナを終息させるために、やれることをやるしかないし、ここで得た経験を次に活かすしかない。
 無常という真理をしっかり持っておかなければいけないと思う。
 よく「あの人は言うことがぶれる」とかいうけど、一つの固定観念固執して、おかしなことになるのも困りものだ。第二次大戦に突き進んだのなんて、妄想に支配されていたとしか思えない。だから、ぶれるのも悪いと決めつけなくてもいいんじゃないかと思いますけどね。アホな信念を振り回されるのは迷惑千万です。
 無常という言葉を、現実に対処する考え方として、見直してみたらどうだろうか。もちろん坐禅しながら。